蝉の死骸

「あっちーなー、オイ」
 当然っちゃあ当然だが、夏はクソ暑い。夕方になっても、まだ暑い(日が落ちないからな)。
 今日は特別日差しが強く、最高気温はこの夏はじめて三十度を越えると、朝の天気予報で言っていた。俺は普段、あまり天気予報なんて見ないタチなんだが、今日はうっかり聞いてしまい、おかげで気分的にヘコんでる。ただでさえ暑いってのに、この夏最高とか言われたら、余計暑く感じるじゃねぇか。
 まあな、これで海やらプールやらに遊びに行けるとか、あるいは冷房の効いた家でのんびりしてられるってなら、どれほど暑くなろうと特に不満はねぇんだけどよ。
 例年通り全国大会に進んじまった俺たちは、炎天下の中練習、練習の毎日だ。大抵の奴らはウェアの形に合わせてくっきりと日焼けのあとが残って、大会が終わった後海やプールに行って水着になるのが、恥ずかしくなるんだよな。
 あーちくしょう、セミがミンミンうるせぇ。
 セミの声って、聞くと余計に暑さが増すよな。俺だけじゃねえよな。
「暑くてイラつく。おいダビデ、アイス食おうぜ」
「……うい」
 ダビデは。
 鬱陶しい髪を適当にひとつにまとめ、首筋のあたりに風を通して少しでも涼を取ろうとしているようだが(邪魔なんだから切りゃいいのにな)。
 ついでに言うなら、つねに木陰に立つ事で、西側に傾きつつもまだ明るい太陽の陽射しから、自分を守ろうとしているようだが(そして俺は影に入る事もできず、直射日光に当たっている。まったく、ふてぶてしい後輩だよな)。
 それでもこの暑さにだいぶやられているようで、かなり弱っていた。
 その状態で、そっけないながらも返事をしたって事は、そうとう食いたいんだろう、アイスを。と言うか、アイス入ってる冷凍庫、覗き込みたいんだろう。
 しかたねえなあ、今日は特別、このバネさんがアイスおごってやるか! 五十円のだけどな。
 などと心の中で先輩風を吹かせていた俺は、今サイフの中にいくら残っているかを確かめようと、ポケットに手を伸ばす。
 ……無い。
 バッグに入れたのかと思ってバッグを覗いてみたが、そっちにも、無い。
 あー、そうだった。昨日もらった小遣いをしまおうと、サイフ出したんじゃねぇか、俺。それしまい忘れたんだ。今頃リビングのテーブルの上に置きっぱなしだな。
「悪ぃ、ダビデ。俺サイフ忘れちまったわ。今日だけ金貸してくんねぇ?」
 先輩風は急激に静まり、俺は後輩に金を借りる(しかも五十円とかをだ)情けない先輩へと成り果てちまった。
 ダビデは、テニスコート内での動きが嘘のように、カタツムリは言い過ぎとしてもイモムシくらいはゆっくり、もそもそっと動いて、サイフを俺の目の前に差し出す。
「いいのか?」
 こくり、と頷くダビデ。
 なんだよ、太っ腹だなー、ダビデ!
 俺はウキウキしながらサイフを受け取って、まず札の入っている方をあける。
 レンタルビデオとかの会員カードが数枚と、新しいのから古いのまで、結構大量なレシート。札は入ってない。
 期待した俺がアホだった。そうだよな、こいつがそんな金持ってるわけがねぇよ。それでも千円札が一枚くらいは入ってるんじゃねーかと期待してたんだが。どうでもいいけどレシートは捨てろよ。
 まったくしかたねえなあと、俺は小さくため息つきながら、小銭が入っている方をあけてみる。
 五十円玉が一枚、十円玉が二枚、五円玉が一枚、一円玉が一枚。
 しめて、七十六円なり。
「お前なんでこんな金持ってねえんだよ! 今日び幼稚園児だってもう少し持ってるっつうの!」
「一円も持ってないバネさんに言われたくない」
「俺は金がないわけじゃねえよ! サイフ忘れたんだって! 家に帰ればサイフに結構入ってるぞ」
 昨日小遣いもらったばっかりだからな。
「でも今はゼロ円。俺の勝ち」
 このやろー……かっわいくねー……。
 まあ、ダビデがかわいかったためしなんてねえけどな。
「はいはい、じゃあお金持ちのダビデさん、貧乏で哀れな俺にアイスをご馳走してくださいな」
「バネさんのアイス買ったら俺のアイス買えない……」
 ちっ、気付きやがったか。
「わーったよ、じゃあ一個買って、半分ずつにしようぜ。それでいいか?」
 ダビデは黙ってコクリと頷いた。暑さにやられちまって反論する気力もないんだろう。
 しかしそうか、一個を半分か。味はさておいて、とにかくでかいやつを買うしかねえな、こりゃ。えーっと七十六円無いで買えるアイスで、でかいやつって、なんだ!? えーっと、えーっと。
「だああ、セミ、うるせえ! 考えがまとまらねえじゃねえか! ちったあ黙れ!」
 俺が、半ば八つ当たり状態で、横にあった木々に向けてそう叫ぶと。
 ぼとり、とセミが落ちてきた。
 一匹のセミが、本当に鳴く事をやめて、地面に転がった。
 あまりにもあまりなタイミングに驚いて、俺が黙ってセミを見下ろしていると、ダビデはやっぱりもそもそと動いてそのセミに歩み寄り、しゃがみ込む。
 動く事をしない――できなくなったそれを、間近で眺めながら。
「セミって七日間しか生きられないんだ……」
 それは今日び小学生でも知ってる常識だ。
 そうだ。一生が短いからこそ、セミは七日間を一生懸命生きている。命を燃やして、鳴き続けているのかも、しれない(俺はセミの生態に興味を持った事が無いから、詳しい事は判らねぇ)。
 なのに「黙れ」なんて、ひどい事言ったよな。
「バネさん」
「ああ、悪かった悪かった、俺が無神経だったよ!」
「死骸が市街地に転がってる」
 一瞬の沈黙。
「……ぷっ」
「お前が転がれ!」
 俺はいつものように反射的に、ダビデの後頭部を力一杯蹴り飛ばす。
 本当に転がったダビデを見下ろしながら、「こんなクソ暑い中で俺は一体何やってるんだ」と空しくならずにはいられなかった。


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