「じゃあ、ちょっと早いけど授業終わりにするぞ。チャイムなるまで静かにするように!」 五十分の授業時間を持て余した数学教師がそう言ってくれたおかげで、俺たちのクラスは普通よりも一分六秒長い休み時間を手に入れた。 あー、次は理科だっけか? 俺が机の上の数学の教科書と、机の中の理科の教科書を入れ換えていると、ひとりの女子がとてとてと、教卓の前の席に座る杏ちゃんに近寄っていく様子が見えた。 なんでか妙に気になった俺は、そっちをじっと見てしまう。その女子の名前を、俺は覚えてないんだけど、杏ちゃんと一緒にいるところをあまり見たことがない気がする。 あ、そうそう。俺は不動峰テニス部二年で唯一杏ちゃんと同じクラスだ。杏ちゃんの事が好きな(本人は秘密にしているつもりらしいけど、バレバレ)アキラは俺の事をかなりうらやましがっていて、俺は特別な意味で彼女を好きなわけではないけど、ちょっと得意げな気分になっていたりする。 「ねぇねぇ橘さん。橘さんってけっこう、男子テニス部の人たちと一緒にいるよね?」 「うん」 「男テニの人たちって、皆変わっててちょっとおもしろそーだよね! なんか、興味あるんだけど、近寄りがたくって。色々話聞いていい?」 おいおい、聞こえてるよ、俺に。 他のヤツらは確かにそうだけど、俺(と森)は普通だろう。 ……比較的。 「伊武くんって、なんかキレーだよねぇ! 寡黙なトコとか、ちょっと長髪だし、ミステリアスでカッコいい感じするけど、実際のトコどーなの?」 ミステリアスでカッコいい……? 女子の目にかかってるフィルターって、便利だな、ホント。 「うーん、そんな寡黙でもないよ。声が小さいから聞きとりにくいけど、よく喋ってるもん」 声が小さいですませていいのか? それに喋るって言うか、ボヤいてるんだろ、アレは。 「神尾くんとすごく仲いいみたい。いっつも神尾くんの事、からかって遊んでるもん」 「神尾くんってアレ? 鬼太郎みたいな前髪してる」 「そうそう!」 やっぱり言われてやがる。ってか誰でも思うよな、あの前髪は。 「アレさあ、試合するのに邪魔じゃないのかなあ?」 「あ、それ私も思ってたの! でもなんかポリシーあるみたいだし、いいんじゃない?」 ポリシーあるのか、アレ。はじめて聞いたぞ。 「こう言ったら悪いかもしれないけど、私深司くんの気持ちすっごい判るの。神尾くんってリアクションがかわいくておもしろいからついつい、からかいたくなるんだよね!」 ふっ、と小さく吹き出してしまう俺だった。 残念だったなアキラ。お前かわいいヤツだってさ。男扱いされてねぇぞ。 「テニス部と言えば、うちのクラスの桜井くんもそうだけど?」 「あ、桜井はいいいい。もーある程度判ってるし、そんなに興味ない」 悪かったな。 「そろそろ実験室向かった方がよくない?」 「あ、そだね。いこいこ」 そこで杏ちゃんたちは教科書やノートを胸に抱いて、席を立った。俺もそれで移動教室だった事を思い出し、つられるように実験室に向かう。 何メートルか前を歩いているふたりは、ウチのテニス部の話を飽きもせず、まだしっかりと続けていた。 「本当に一番大人しいのは、森くんかなぁ。素直で優しくていい人だよ。で、森くんとダブルス組んでいるのが内村くん」 「あの、いっつもボーシかぶってるちょっと目付き悪くて怖そうな人?」 「ああ、うん、そうだけど、別に怖くないよ。森くんと比べちゃうと乱暴かもしれないけど、普通の男の子レベルだし。好奇心旺盛で、一生懸命で、やっぱりカワイイ感じ」 男として見られてないヤツその2、登場。 つうかここまで語られると、俺が杏ちゃんの目にどんな風に映ってるか気になってきたぞ。でも話してくれねーんだろうな。相手の女子が聞く気ねぇみてーだし。 カワイイだけは、思われたくねーなぁ。 「あとすごくおっきい人居たよねぇ。修行僧みたいな……名前、なんだっけ」 「え?」 それまでずっと朗らかに笑っていた杏ちゃんの表情が、一瞬だけ固まった。 ……あれ? 「石田さんのこと、かな?」 「あ、そうそう思い出した、石田くん! なんか怖そうって思ってたけど、この間見たら何気に笑顔かわいくて、優しそうでちょっといいかなって。背も高いしさ!」 俺は石田が女子からわりと高評価を受けている事に驚きつつも、呑気に驚いている余裕なんて無かった。 なんとなく、そう、俺の気のせいかもしんねぇけど。 杏ちゃんの様子。他の連中について話してる時と……違わねえか? 笑顔が固いっつうか、なんつーか。 「石田さんはね、ちょっとスゴイよ。地区大会でなんて、相手のチームの選手怪我させちゃったりして。相手の人も背が高いし、体格よかったのに」 「え? そうなのー? じゃあ最初のイメージ通り怖い人なんだ!」 「怖いって言っちゃえば、怖いかも。修行僧ぽいってすごい的を射てるよ。雰囲気固くて近寄りがたいトコあるし」 「ほんとにー? なーんだ、ざんねん」 そこでふたりは実験室の入口に辿り付き、手を振って別れてそれぞれの席についた。 実験の班は出席簿順に決められていて、杏ちゃんは三班。 俺も、幸運なのかどうなのか、同じ三班。 何気ないフリを装って、俺は杏ちゃんの隣に座りながら、ちらりと時計をチェックする。チャイムがなるまであと一分ちょい。話しかける時間はあるな。 「はじめて知った」 「? 何が? 桜井くん」 「杏ちゃん、石田の事怖くて近寄りがたいって思ってたんだな」 「!」 すると杏ちゃんは瞬時に頬を赤らめた。 どっからどう見てもものすごい慌てっぷりで、首をぶんぶんと左右に振ったりしてる。 「ち、違うの! そうじゃなくてっ……て言うか、聞……いてたの?」 「声でかかったから、バッチリ聞こえちまった」 「えぇー!」 杏ちゃんは両手で口元を抑えて。 そんでもって、赤くなった顔をもっと赤くして。 恨みがましそうに、俺を上目使いでかわいく睨みつけながら、 「絶対にナイショよ。特に石田さんには」 なんて言った。 内緒にしておくのは、杏ちゃんが石田の事を「怖くて近寄りがたい」って言っていた事なのか。 それとも、クラスメイトの女子に対してそう言わせた、杏ちゃんの中にある気持ちの方なのか。 どっちだろうな? 「練習後の差入ジュースで手を打つ」 「ありがとー、桜井くん!」 ま、どっちでもいーか、なんて、俺は杏ちゃんの心底ほっとしたような笑顔見て思った。 一個めの方は元々言うつもりねーし(そもそも盗み聞きした俺の方が悪いんだし)。 二個めの方は……なんかちょっと癪だから、言いたくねーし。 俺はなんだか楽しくなって、ひとりこっそり笑ってみる。 他の誰にも気付かれないよう、そっと優しい目線を杏ちゃんに向けていた、石田の姿を思い出しながら。 キーンコーンカーンコーンと、チャイムが鳴る。 「気を付け、礼」と、日直の声が実験室の中を響き渡る。 そうして終わった、666秒間の休憩時間。 いつもよりほんの少しだけ長かったおかげで、俺は誰にも言えない大きな秘密を手に入れる事ができた。 |