オレンジ色の猫

 放課後の練習を終えた俺は、部室の中に入るや否や、壁に背を預けて座り込む。
「帰りにどっか寄ってこうぜ」とか、「あの時クロスに打っておけば、決まったんだけどな、チクショウ!」とか、着替えながらとりとめのない事を話す仲間たちの声を聞きながら目を伏せた。
 あー……駄目だ。このまま眠ってしまいそうだ。
「今日はどうした、石田。少し調子が悪かったようだが」
 最後に部室に入ってきた橘さんの声に反応して、俺は目を開ける。橘さんは俺のロッカーを開け、中にかけておいた汗拭き用のタオルを取り出すと、俺に向かって投げてくれた。
「あ、すみません。ありがとうございます」
 俺は軽く会釈をして、タオルに顔を埋めた。
 さすがだな、橘さん。部長として俺たちを率いて、俺たちと同じかそれ以上の練習をこなしながら、部員の様子に目を配るのを忘れないなんて。
「え? 石田調子悪かったのか?」
「あの破壊的なフラットサーブのどこがだよ。スッゲー重かったぞ」
 ほら、他の連中はこれですよ、橘さん。
 俺が逆の立場だったとしてもそうだっただろうから、それ以上は言わないけれど。
「大した事ありませんよ。少し寝不足だっただけで」
「寝不足?」
「早寝早起きがモットーじゃなかったのか? お前。9時に寝て4時に起きるんだろ?」
 だから見た目で決めつけるなよ。そう言う事を。
「スポーツ選手にとって体調管理は最重要課題だと言う事は、お前なら判っていると思っていたが……」
 その言い方は俺以外の誰かが判っていない、とでも言いたげに聞こえます、橘さん。
 ……アキラか、内村あたりかな。
「ええ。判ってはいるんですけど、どうも夢見が悪くて」
 俺がそう言うと、一瞬の沈黙が流れた後、桜井やアキラが笑いはじめた。
「なんだよ石田。怖い夢見て眠れなかったのか?」
「ガキじゃあるまいし!」
「……違うって」
 絶対そう言われると思ったから、あえて言わないでおいたんだけどなぁ。
 俺は重い体を何とか持ち上げ、ロッカーに近付くと、皆に遅れて着替えをはじめた。
「違うってなら、どんな夢見たんだよ」
「うーん……訳わかんねぇ夢、かな。何の意味があるかも判らない。何でこんなに嫌な気分になるかも判らない、そんな夢」
 一足早く着替えを終えた深司が、パタン、とロッカーを閉める。
「いっそ夢判断でもしてみたら」
 夢判断?
「あ、深司のクラスでも流行ってるのか? ウチのクラスの女子もなんか分厚い本持って、皆でやってたぜ、夢判断」
 深司を後押しするように、桜井が続ける。
「夢判断、か……」
 信憑性あるんだろうか、それって。イマイチ信じがたいけれど……でも占いじゃなくて心理学みたいなものらしいから、それなりに信じてもいいんだろうな。
 けれど。
 やってみるって、どうやればいいんだろうか。
 俺はそんな事を考えながら、制服のボタンを一番上まで閉めた。
「もしもーし!」
 それとほぼ同じタイミングで、部室のドアをノックする音と、華やかな女の子の声。
「杏ちゃん!」
「入っても大丈夫? 着替えとかしてない?」
「大丈夫だ」
 答えながら橘さんがドアを開けると、制服姿の杏ちゃんがひょっこり顔を覗かせた。
 やっぱり、汗臭くて狭いこの部室も、杏ちゃんひとりいるだけで雰囲気が変わるな。
「ちょうどいいじゃん、石田」
 桜井が肘で俺をつっついた。
 ちょうどいいって、何がだ?
「杏ちゃん、今日クラスの女子から夢判断の本借りてたよな? 今持ってる?」
「え? うん、持ってるけど」
「石田が昨日の晩だか今朝だか、ヘンな夢見てよく眠れなかったんだと。調べてみてやってくれよ」
「そうなの? 判った、ちょっと待ってね」
 桜井の言葉に杏ちゃんは少しだけ慌てて、鞄の中から本を一冊取り出した。ハードカバーで、結構厚い。あんなの持ち歩いていたら重いだろうに。
 それから、ぼんやりしていた俺の手を引いて強引に椅子に座らせると、向かいの席にちょこんと座り、本を開いて俺を見た。
「さぁ、どんな夢を見たの。話してみて」
 話してみて、って言われてもなあ。
「オレンジ色の、猫が」
「ふんふん」
「俺をじっと見てた」
「ふんふん」
「……終わり」
『は!?』
 橘さんを除く六人の、呆れ混じりの視線が、俺に集中した。橘さんは呆れてはなかったけけれど、少し驚いたような表情で、やっぱり俺を見下ろしている。
「その夢のどこが怖いんだよ」
「だから怖くはないって言っただろ」
「それにしたって、夢見が悪いって言うほどのもんか? 百歩譲って認めたとしても、寝不足になるほどのもんじゃねーだろ」
 いや本当に、お前の言う通りだよ、桜井。俺もそう思う。
 けれど夢の中で、オレンジ色の猫が延々と、じーっと俺を睨みつけていたのは、なんだか気味が悪かった。誰かに呪われているのかと疑うくらいには。
「ええと、とりあえずオレンジ、見てみよっか。色は九十二ページからで……」
 沈黙の中、パラパラとページをめくる音が、不思議と耳に心地いい。
「あれ? オレンジは書いてない。その他の色、中間色……中間色って何?」
「色相環において、光の三原色に挟まれた色の事だ。つまりオレンジは中間色になるな」
「兄さん、詳しいのね」
「この間美術で習ったばかりだからな」
 ううん。橘さんが美術の授業受けている姿って、ちょっと想像できないな。
「中間色はね、不安を表すんだって」
「不安?」
「石田さん、何か不安を抱えているのね」
 抱えているのだろうか。
 自覚は無い。無いけれど、だからこそ夢に現れたのかもしれない。夢判断は深層心理を読むと言うから。
 なら、俺は何に対して不安を抱えているんだろう。
「猫は動物だから三十六ページから……」
 猫の解釈は、おそらく俺の不安の正体を示すだろうと、俺以外の皆も気付いていたようで。
 腕を組んで堂々と立つ橘さんを除く六人(俺を含む)が、少しずつ身を乗り出して、杏ちゃんに迫った。
 ページをめくる音が止まり、杏ちゃんの視線も止まる。
「なんて書いてあった?」
 答える気配の無い杏ちゃんを急かすように訊ねる内村。
 杏ちゃんは口を少し開け、しかしすぐに閉じ、ついでにパタンと音を立てて本を閉じた。
「よく考えたらこれって、皆の前で答えるのは、プライバシーの侵害よね」
 立ち上がった杏ちゃんは、そそくさと本を鞄にしまい、それから俺の傍らまで寄ってきて、俺の腕を引く。
「帰ろ、石田さん。解釈は歩きながら話すね」
「えっ」
「ほら、急いで! 皆は着いてきちゃ駄目だよ!」
「ええと、じゃあな、皆、また明日……」
「バイバイ!」
 俺は腕を伸ばして自分のテニスバッグを掴むと、杏ちゃんに引かれるままに歩き出した。
 今日の杏ちゃんは、いつもにも増して強引だな。

「それで?」
 二人並んで沈黙のまま校門に到達し、少し居心地の悪くなった俺は、杏ちゃんに尋ねる。
「うん、あのね」
「うん」
「猫は、女性を示すんだって」
 俺はうっかり、バッグを取り落としそうになった。
 ぴたりと足を止めたのは、俺も杏ちゃんもほぼ同時。
 数秒その場に直立して、向き合ったのもほぼ同時。
「私、何か不安にさせるような事、したのかな?」
 杏ちゃんは泣きそうな表情を気丈さの下に押し隠して、俺を見上げていた。
 俺はすっかり困り果てて、しばらく黙って見つめ返していたけれど。
 どうしてか嬉しくなったから、表情を緩めて微笑んで、杏ちゃんの背中を押して、また歩きはじめた。
 ありがとう、杏ちゃん。
 けれど違うんだ。
 全ての答えは、俺の中にあったから。
「杏ちゃんのせいじゃない」
「でも」
「きっと、こうして杏ちゃんの隣に立って歩いているのが俺でいいのかなって……自分でも気付かないうちに不安になっただけだ」
 杏ちゃんは、ハッキリ言って可愛い。
 それに、明るくて、真っ直ぐで、だから気が強いところばかり目に付くかもしれないけれど、とても思いやりがある優しい子だ。
 だから。
「あ、杏ちゃん?」
 うっかりひとりで思い悩んでいると、突然ぎゅっと腕に抱きつかれ、少し戸惑う俺。
「だったらそんな夢、見る必要ない」
「え?」
「だから、見ないように、おまじないだよ」
 上目使いに見上げてくる杏ちゃんに、愛おしさが溢れ出て。
 俺は照れ笑いを浮かべながら、そっと彼女にキスをした。


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