静かに扉が開くと、手塚が診察室から姿を現した。 数十分前に「手塚さん、お入りください」と名を呼ばれ、部屋に入る前にはしっかり着ていたレギュラージャージを今は小脇に抱えている手塚は、相変わらずの無表情で――けれどそれが、何よりも苦悶をあらわにしたものだと、俺には判った。 おそらく、激痛が走っているのだろう。 左肩にも、何より、心にも。 手塚は無言のまま、俺の隣に座る。真正面を向いたまま、俺を見ようともしないで。 俺も同様だった。隣に座る手塚を見ようともしなかった。恐ろしくて見れなかったんだ。 「俺は知っているつもりだった。お前が青学の柱である自分をどれだけ誇らしく思っているかを」 だからこそ。 「自分と言う柱によって支えられた青学で、全国に進みたいと望んでいた事だって」 だけど……だけど。 俺は言葉に詰まって、それをごまかすように、あらかじめ買っておいた缶コーヒーを手塚の正面に差し出す。 手塚がそれを受け取ったんだろう、俺の手にかかる重みが軽くなると、俺は缶を手放し、自分用の缶コーヒーを両手で掴んだ。 「俺は少し怒っているんだぞ、手塚」 心を決めて、俺は手塚に振り返る。 手塚はコーヒーのプルトップを開けて、けれどそれを口に運ぼうとはせず、ただ黙って、目を伏せた。 「お前が柱として戦いたいと思うならって、あの日の約束をはたしたいと思うならって――だから俺は、止めなかったんだ。応援したんだ」 お前の気持ちを知っていたから俺は、「がんばれ」と言って、お前の背中を押したのだけれど。 その事を後悔するくらいならば、他に俺がやるべき事はいくらでもあると、判っているつもりだけれど。 「けれど結果は違ったじゃないか。お前が越前の糧になるつもりだったって言うなら、俺はあの時、殴ってでも止めたぞ、絶対に」 部活は、大会を勝ち進み、勝利を掴むためだけにあるんじゃない。自身を鍛える事や、仲間たちとの団結力を深めたり、人間関係を学んだりするものその一環で、だからこそ後輩の育成に力を尽くす事は、大事な事だと思う。 けど、そのために。 「越前の才能を伸ばすために、お前の肩が犠牲になるなんて、誰が許しても俺が許さないからな」 沈黙が流れた。 俺が何も言わず、手塚も何も言わず、ゆっくりと手塚の缶コーヒーが、手塚の口に運ばれる。 ひとくちふたくち飲みこんだんだろう、コーヒーは手塚の喉を通過したようだった。 缶が手塚の口を離れると、ようやく沈黙は破られた――手塚によって。 「俺は勝たなければならなかった……いや、ただ、勝ちたかった」 判っているよ。判っていたから、俺は背中を押したんだ。 「だが、勝てなかった」 ああ、それも、判っている。 「判ってるんだよ俺は、悔しい事に。お前は越前のために無理して戦ったんじゃない。自分の夢を叶えるために無理して戦ったんだろうさ。そして望んだ結果が出なかったから、せめて越前のためにって……許されない敗北をしてしまったなら、せめてそれを無駄にするわけにはいかなかったって、言いたいんだろ? それはとても合理的な事で、部長であるお前はそうするべきだったんだろうと、頭では判ってる。けれどな、判っていて、判っていても、俺はお前に文句を言ってやりたいんだよ」 「筋が通っていないな。結果的に俺がやった事は、お前が桃城に対してした事と、何ら変わりはないはずだが」 「ああそうだよ。筋なんて通ってないさ。それがどうした。仕方がないだろう、怒っているんだから。俺だっていつも冷静じゃいられないさ。自分の事で精一杯なくらい、視野が狭くなる時だってあるさ」 まったく、自分でも自分がみっともなくて、笑えてくるよ。 きっと俺が許せないのは、俺が怒っている対象は、手塚じゃなくて俺自身なんだろう。 「すまない手塚。これじゃあやつあたりだな……」 手塚は何も答えずに目を伏せただけなのだけれど、それが少し、笑っているように見えた。 「なあ手塚、正直に言うぞ。俺はな、お前が俺に見せてくれるはずだったものを、越前が代わりに見せてくれたとしても、ちっとも嬉しくないんだ」 「……」 「俺はお前と約束したんだ。青学を全国へ導くってな。越前とじゃないんだよ」 どうしよう。 自分でも何を言っているか判らなくなってきた。 混乱してる。でも、自分が間違っている事だけは判る。俺がさっきから紡いでいる言葉は、傷付いている手塚に言うべき言葉じゃないはずだ。しかもどう考えても、自分の事を棚に上げて、手塚を追いつめているじゃないか(手塚は、こんな事で追いつめられるほど弱くないけれど)。最悪だ。 「大石」 「……なんだ?」 「俺が約束を反故にした事が、今までにあったか」 越前に、『俺は負けない』って言ってたよな? さっき。 無粋なツッコミになりそうだから、言わないけど――あれは約束とは言えないし、何より、手塚は気持ちの上ではけして負けてなかった。それは試合後の、跡部の顔を見れば誰にでも判った事だ。 「今のところないな」 「これからもだ」 その時、手塚が俺に見せた目は。 苦痛に歪んでも、敗北を悔やんでも、いなかった。あえて言うなら――そう、何かと戦っているように見えたんだ。 「て……」 小さな放送が、流れる。 薬(湿布かなにか、かな?)が支給されるんだろう、手塚の名前が呼ばれて、手塚は静かに立ち上がった。 「俺は必ずコートに戻る」 それこそが。 けして反故にされる事のないだろう、新たな約束で。 「そして万が一、俺がこの約束を反故にする日が来たとしても、あの時全員の反対を押し切って俺を戦わせてくれたお前への感謝を、忘れる事はないだろう」 手塚の乗せた飛行機が、西南へと向かって飛び立った。 巨大な飛行機は、徐々に高く飛び上がり、小さくなり、空に溶けていくようで、手塚は本当に遠くへ行ってしまうんだなあと、少しだけ不安にかられた。 「お、飛行機雲だ」 眩しいからか、タカさんが目を細めながら空を見上げて、くっきりと残った飛行機雲を見つける。 それが、手塚の乗った飛行機が残したものかは、判らないけれど。 「ふふ。なんだかまるで、名残惜しんでいるみたいだね」 不二がぽつりと、俺がちょうど思っていたのと同じ事を呟いた。 「え? 何が?」 そんな不二の発言の意味が判らなかったのか、英二が聞きながら、不二の顔を覗き込む。 「さあね」なんて答えながら、不二は笑顔を俺に向け、俺は「そうだな」と答えながら、空を見上げた。 「手塚だって本当は、戦いたいんだ。ここに残って、皆と一緒に、な。だから――あの飛行機雲が、まるでここに居たいって思ってる手塚の心みたいだなって」 名残惜しくて、離れがたくて。 それでも自身と青学の将来のために、旅立たなければならない手塚の想いを、飛行機雲は示しているように、俺の目には映ったんだ。 「大石、それちょっとクサイぞ」 言われると思った。正直、自分でも思ったくらいだからな。でも、それなら不二だって俺と同じでクサイじゃないか。 言われっぱなしでは少し悔しいので、満面の笑みを浮かべる英二の頭を、俺はくしゃくしゃっと掻き混ぜた。 ――なあ、手塚。 こんな事口にしたらまたクサイって言われるかもしれないけど、でもやっぱり、俺は思うんだ。 お前の想いは、離れていてもずっと俺たちの所に残っていて、一緒に戦っているんじゃないかって。 だから、お前の約束が果たされない日が、来るわけないんだよ。 だって俺たちはこれからも、お前の思いに導かれて、進んで行くんだから。 |