頬杖をつき、沈みかけたオレンジ色の太陽を眺めながら、切なげな視線で葵は言った。 「はー、マザー牧場行きたいなあ」 そう言ったのがもしダビデなら、「なんで突然マザー牧場なんだよ!」と、バネのツッコミが入ったところだろうけれど、バネは葵に対して不用意にツッコミを入れたりはしない。ダビデほど頑丈じゃないからなのか、他に理由があるのかは聞いた事ないけれど、何にしても賢明な判断だと思う。 「どうして突然マザー牧場?」 「ほら、マザー牧場って言ったら、『千葉県民なら一度は行きたい三大レジャースポット』のひとつだよ。なのにボク、行った事ないんだなあ」 さりげなく、さも当然のように葵はそう言ったけれど、この俺でさえ聞いた瞬間ツッコミどころを二箇所も見つけてしまうセリフだったから、 「三大って、他ふたつはなんだよっ!」 と、隣で聞いていたバネがすかさずツッコミを入れた。 へえ、ツッコミの人間は、先にそっちをツッコむものなのか。俺は「マザー牧場ってレジャースポットって言っていいのか?」とか、「千葉県民なら一度は行きたいところなのか?」とか、そっちの方が気になっていたよ。 「え? そりゃもちろん、鴨川シーワールドと、東京ドイツ村でしょ?」 「ドイツ村ならポートタワーの方が有名だと思うのね」 樹っちゃん、それはツッコミのつもりなのか、ボケ倒しのつもりなのか、俺には判断が難しいんだけど。 「まあいいか。で、その三大の他ふたつを無視して、マザー牧場を選んだのにはなんか理由あるのか?」 葵は、問いを投げかけてきたバネから、落ちていく夕日に視線を移した。 さっきまでの、ちょっとアンニュイな様子とは違って、夢見がちで生き生きとした目をしている……ような気がする。 「だって、バネさんがマザー牧場のソフトクリームは絶品だってしつこく言うから、食べてみたいなあって思ったんだよ」 「あー、なんだ俺のせいか。すまんすまん。でもな、あれはほんとに美味いんだ」 バネは腕を組んで目を伏せて、味を思い出しているんだろう、しきりに頷いている。ふと視線を巡らせてみると、樹っちゃんも「うむ」とでも言いたげに頷いていた。 そうだね、確かに、あれはおいしい。 けどあれ、今はもう、現地に行かなくても食べられるんだけどね。おもしろそうだから、もう少し黙っておこうか。 「あとさあ、子馬と戯れてみたいなあ。乗れるのかな」 「乗れる乗れる。お前なら」 乗れたっけ? 実は俺、マザー牧場に行ったのはずいぶん昔の事だから、どんな場所だったかとか何があったかとか、全く覚えてない。もちろん、ソフトクリームの味はしっかり覚えているけれど。子供の記憶に強烈に残るほど、感動的においしかったから。 まあ乗馬体験ができたとして、普通子馬に乗せてもらえるのって、小学生までだよなあ。判ってて葵をからかっているのか、判らなくて適当な事を言っているのか、けっこうバネって読めなかったりする。 「子馬と一緒に草原を駆け巡りながらソフトクリームが食べられるんだ! それってなんか、いいね! おもしろいよ!」 いや、バネはそこまで言ってないと思うけどね。 「いや、そこまで言ってねーから、俺」 ほら、本人も言ってるよ。 「えー、そーなんだー。残念だなあ。でもま、いいやっ! 関東大会勝ち抜いたら、そのお祝いに皆で行こうよ! 子馬とソフトクリームの会!」 正直な話。 関東大会勝ち抜き祝いが牧場ってのは、個人的にいただけない。いや、けしてマザー牧場にケチをつけるつもりはない、ないんだけれども。 それに俺たちには子馬関係ないからね。見る以外に。中学校に入りたての葵はともかく、俺たちはどうしたって小学生には見てもらえないだろうから。 「いや、葵」 さすがに見守る姿勢を維持するのが精神的に辛くなり、「それはどうだろう」と俺が口を挟もうとした瞬間。 「断わる」 ノリのいい(そしてあのソフトクリームを再び食べたがっているのは間違いないだろう)バネが、そこまではっきりきっぱり否定した事に、俺は少なからず驚いた。 普段の彼ならば、「お、いいな! 行くか!」と、真っ先に話に付き合ってあげるだろうに……よっぽど嫌な思い出でもあるんだろうか。トラウマになるような。 「ダビデをあんなところに連れて行ってみろ。『ウマは美味い』とか、『ウシが笑ってウッシッシ』とか、『ブタがぶった』とかくっだらねー事ばっか言うに決まってんだろ! ツッコミ疲れる俺の身も、ちっとは考えてくれ。面倒見るのは俺なんだから」 面倒見なければいいのに……なんて、言うだけ無駄なんだろうな、きっと。バネはそう言う性分に生まれついてしまったんだから。 って言うか……マザー牧場ってブタ居るのか? まあきっとバネも、俺と同じようにソフトクリームの記憶しかなくて、適当な事を行っているんだろう。 「つまんないー、行きたいよー!」 葵は心底不満そうに、バネを上目使いで睨んで、足をバタバタさせた。 「子供ぶっても無駄だぞ、葵部長」 「ちぇっ……って、あ、判った。判ったボク、名案!」 ぱああ、と効果音が入りそうなほど、葵の表情は突如明るく変わる。 左手を机について身を乗り出して、右手を勢い良く挙げて、バネに主張する。 「ダビデだけ仲間はずれにすればいいんじゃない!?」 「おお、そりゃ名案だ。採用!」 どうやらバネは、相当、ソフトクリームが食べたかったらしい。気がかりが片付くと、即、マザー牧場行きを決めてしまった。 うーん。 俺も仲間はずれにしてくれるかな……? まあ、別に、行ってもいいんだけどさ。 「さ、決まったところで、今日はもう帰ろう」 「お、そうだったな」 「外、もう真っ暗なのね」 慌てて立ち上がり、それぞれの荷物を手にする三人を背中に、俺は部室のドアを開ける。 部室の中から見ると押戸になっているそのドアは、何らかの障害物にぶつかったらしく、がん、と鈍い音を立てて途中で止まった。 ドアの前に荷物置くなんて、非常識なやつが居るもんだ、と思いつつ、隙間から覗いてみると。 「あれ? ダビデ。居たの?」 その荷物と言うのは、ドアの前で膝を抱えてうずくまっていた、ダビデ。 「……バネさんがジュース奢ってくれるって言うから、待ってた」 さっきまでの態度を見る限り、バネはすっかり忘れてそうだよ、その約束。 って言うか。 「もしかしなくても、今の話、聞いてた?」 微動だにしないダビデが少しかわいそうになって、そうたずねてみると、肉眼でかろうじて確認できる程度に小さく、彼は頷いた。 ああ、大きな背中が泣いている。 「何してんだよサエ。早く開けろよ」 「うーん、無理だなあ。バネのせいでこうなってるから、バネじゃないと開けられないと思うよ」 「はあ? 何言ってんだ?」 俺がドアの前からどくと、バネは眉間にシワを寄せつつ、隙間から外を見た。 「うわっ、ダビデ! お前何そんなとこで丸くなってるんだよ。邪魔だからどけ!」 「……邪魔してるんだよ」 「なんだあ? 拗ねてるのか?」 呆れ混じりのため息を、バネは吐いたけれど。 うん、まあ、拗ねたくなる気持ちも判るよね。 ジュースおごってもらう約束を楽しみに、けなげに先輩を待ってたら、先輩はそんな事を忘れてたあげく、他の連中と結託して自分を仲間はずれにする計画立ててるんだから。 「わーったよ、ダビ! マザー牧場行ったら、ソフトクリームおごってやるから。だからそこどけ」 「……連れてってくれんの?」 「ただしダジャレは一日二回までだぞ。あと今日のジュースは無しだ」 「うぃ!」 部室のドアは開かれた。 バネは立ち上がったダビデの頭をぐしぐしと撫で、ダビデはなんだか嬉しそうに笑っている。 「サエさん」 「うん?」 「一日二回まで許すなんて、バネさんってけっこう寛大だよね」 「……」 それよりも、ソフトクリーム一個で全部ごまかされるダビデの方が寛大だと、俺は思ったのだけれど。 言わない方が皆幸せだろうから、これは秘密にしておこう。 |