壊れた時計

 一般家庭に生まれた俺がもらっている、ごくごく平均的な金額の毎月のお小遣いだけじゃ、欲しいもの全てを手に入れる事ができない。それは、しょうがない事。
 だから自転車は、お年玉を使って買った。
 ラケットとシューズは、「学校で使うものなんだから買って!」と三日くらいしつこく粘って頼んでみたら、親がしぶしぶ買ってくれた。小学校の卒業祝と、中学校の入学祝の意味も込めて、らしい。
 けれど時計は難しかった。お年玉は自転車でほとんど使ってしまったから自分じゃ買えなかったし、ラケットとシューズをねだった直後だから、親にねだっても当然いい顔をしてくれない。「もっと安いのでいいでしょう」って言われると、反論しにくいし。そりゃまあ、「時計なんて時間が判りゃそれでいい」って言われてしまえばその通りだけど、どうせならカッコいいのが欲しいんだ。
 頼みこんで頼みこんで頼みこんで。
 学校がはじまって約二週間、時計無しの生活を送ったあとに、ようやく欲しい時計が手に入った。
 誕生日のプレゼントにと、買ってもらったんだ。

 それが、約一年前の事。

 たまには部室を掃除しよう、と橘さんが言ったから、俺たちは練習を少しだけ早く切り上げて、教室に置きっぱなしの雑巾を取りにいった。
 橘さんは、女子に言わせればそうでもないのかもしれないけど、男の中ではわりときれい好きだから、我らが男子テニス部の部室の整理整頓は、それなりになってると思う。
 まあ、内村とかアキラとかは割と無頓着だから、色んなものを出しっぱなしにして、それを元の場所に片付けるのが、橘さんや石田や俺の役目なってしまうんだけど。なんで俺たちが、と思わない事もないけれど。
 そう言うわけで、一見すると綺麗な(ボロいけど)部室は、でもほうきがけとか雑巾がけとかはさすがにあんまりやらないから、埃が沢山積もってるんだろうと思う。きっと橘さんはそれを気にして、春休みあけに突然、掃除をしようと言い出したんだ。
 誰に指示されたわけでもないのに、皆自分の役割を判ってるみたいで、石田はロッカーの上を適当にはらったあとに雑巾で拭きはじめ、深司はひとり黙々と、窓(最初は外側)を拭いてたりする。
 さて、じゃあ俺はどこを掃除しよう。
「森、手があいてるならこっち、手伝ってくれ」
「はい!」
 俺はとりあえず目の前にある机でも拭いてようかと思ったけれど、橘さんに呼ばれてしまえば、そっちに駆けつけるに決まってる。
「この辺のロッカーに、よく判らないものが色々入ってるからな。必要なものとそうでものにわけて、いらないものは捨てようと思う」
「はい」
 部室に備えつけられているロッカーは、古くてボロくて、小さい。
 けれど俺たちはとにかく部員数が少ないから、ひとりひとつずつロッカーを使っても、あまっている。
 空いてるロッカーに、適当に荷物を詰め込んで放置する奴は、男が七人も揃えばひとりふたりは確実にいる。ひとりふたりですむなら、むしろ少ないくらいだ。
 まあ犯人が誰とは言わないけどさ。
「雑誌とかけっこう入ってるな」
 橘さんが最初に取り出したのは、古いのから最新号まで、間がぽつぽつと抜けている雑誌類。
 俺たち二年一同、皆そんなに金持ちでもないから、読みたい雑誌を順番に買って回し読みしていたりするんだけど……。
 読み終わったやつは責任持って、持ち帰るか捨てるか、しろよなー。あ、この号、確か内村担当だ。こっちはアキラ。ほとんどふたりじゃん。まったくもう。あ、これは桜井のだ。
「やぶれたTシャツとか、靴下とか……なんだこれは」
 そんなもの、ここに放りこまずに最初から捨てときなよ、どっちだかしらないけど!(って、ふたりじゃなかったらどうしよう)
「それから……時計?」
 橘さんが、ほとんどゴミためでしかないロッカーの中から、黒い腕時計を取り出す。
「あー!」
 俺は、窓の外から入りこむ日の光に照らされた時計を指差して、大声で叫んでしまう。
 すると橘さんだけじゃなく、それぞれの担当場所を掃除していた皆が、俺に視線を集中させた。
「この時計、森のなのか?」
「は……はいまあ、一応そうなんですけど」
「動いていないぞ? 電池切れか……」
「いえ、壊れてるんですよ、この時計」
 俺がそう言うと、橘さんはすんなり納得してくれた。細かいキズたくさんあるし、表面のガラス、ヒビ入ってたりするから。
 半年くらい前まで俺の腕に治まっていたのに、壊れて、それから行方不明になっていた腕時計。なんだかむしょうに懐かしくなって、俺はちょっと目を細めてそれを見つめる。
 去年の誕生日に買ってもらった時計。
 手に入った時、すごく嬉しかったのを今でも覚えてる。
「去年親に買ってもらったんですけど、けっこう高くて、なのに半年もしないうちに壊してしまって、すごく怒られました」
「確かに、高そうだな」
 橘さんは時計をじーっと見つめて、そう呟いた。
「修理に出せば元通りに動くんじゃないか? このままロッカーの中に放りこみっぱなしでは、もったいないだろう」
「いえっ!」
 俺が向きになって反論すると、橘さんは不思議そうに俺を見下ろして。
 そりゃそうか。高価な時計を、治したらどうだってわざわざ言ってくれてるのに、それを拒絶する奴ってそう居ない。
 でも。
「これは、このままでいいんです。いや、こんな小汚いロッカーに入りっぱなしなのは、嫌ですけど」
「……どうしてだ?」
「勲章ですから、俺の!」
 俺は、橘さんから時計を受け取って、長針と短針と秒針が示す時間を確認する。
 半年前の、秋の入口ならば、昼の厳しい陽射しがようやく弱まりだした時間帯。
「これが壊れたの、あの時なんですよ。俺たちが今の体制を勝ち取った日」
 殴られたのも、人を殴った拳も、大会出場停止になった事を知った心も、とてもとても痛かったけれど。
 その痛みを忘れて笑いあえるくらいに、誇らしかったあの日。先輩たちから開放されて、自由を手に入れた時間。
「この動かなくなった時計を見るたびに、俺はあの日の喜びを思い出せます。だから、これはこのままでいいんです」
 橘さんはまだ、少し面食らったような顔をしていたけれど、すぐに優しく笑ってくれた。
「お前がそう望むなら、それでいいんじゃないか」
「はい」
「ただ、これからはもう少しマシな場所に保存するようにした方がいい」
 はい、それは俺もそう思います。
 でも俺は、あんな所に入れたつもりないんですけど……まああんなところに入ってしまった事に気付かなかった俺が悪いと言えば、悪いけど。
「それならそうと早く言えよなあ。床におっこってたからゴミかと思って、そこに放り込んどいたのによ」
 犯人お前か、内村!
 まあ、ゴミと間違えられても仕方がないかもしれないけど……でも根本的な事が間違ってる! ロッカーはゴミ箱じゃないぞ!
「森、そう言う事ならその時計、目立つとこに飾っとこうぜ。お前ひとりの思い出なわけじゃないだろ」
 そうだけど。
 でも時計は俺のなんだけど。このために俺今、小遣いで買った五百円の安い時計してるし。
「いっそ永久保存版にすっか!? このテニス部が存在する限り、何年も何十年も、部員はその日に感謝するように!」
 勝手な事言うよなあ、内村は。いつもの事だけど……。
 けど、それはいい案かもしれない。
 橘さんが――俺たちが築いたテニス部の、最初の一ページ目を記録するために使われるなら、痛みを乗り越えた喜びを、思い出す手伝いになるのなら。
 大切な時計を差し出すのも、悪くない。
「じゃあここ、置いてもいいですか、橘さん」
 俺が部室の隅にある、手ごろな高さの棚を指差して聞くと、橘さんは静かな笑顔で頷いてくれた。
 雑巾で、その棚の上をていねいに拭いて、そっと止まったままの時計を置く。
 それから俺たち全員、長い事、その時計を見つめ続けていた。
 なんだろう、不思議だな。
 今の方が、動いていた時よりもよっぽどカッコよくて、大切なものに感じるのが。


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