携帯電話

 目覚めると、枕元に置いてあるセットしてない目覚し時計は、十時を指していた。
 そんなのんびりはじまる日曜日の朝。
 私は体を冷やさないよう、パジャマの上にカーディガン羽織って、「お腹すいたー」なんて独り言呟きながらダイニングに向かった。
「おはよう、杏」
「おはよー」
「ずいぶんゆっくりだな、杏」
 小さく欠伸しながら、お母さんに答える私にかかる、お父さんのじゃない低い声。
「へ!?」
 寝ぼけ眼をこすりながら、リビングの方をじっくりみると、兄さんがソファに座ってゆったりしてた。
「何してるの、兄さん。今日、朝から部活って言ってたよね?」
「こんな日に部活ができるか。外を見てみろ」
 兄さんが親指で示す先に視線を向けると、カーテンの隙間から外が見える。と、言うか、なんで今まで気付かなかったんだろうってくらいに大きな、雨の音が聞こえてきて。
「うわー、すっごい雨」
「そうだろう。だから当然、部活は中止だ」
 私はちょっとだけ呆然として。
 それから、お腹が空いているのは少しだけ我慢して、部屋に戻ろうって思った。眠っている間にばっちり充電してある携帯電話を手にとって、それで、石田さんに電話をかけるの。部活する予定だったのに雨で中止になったんだから、きっと今頃暇しているはず。
 だから私、雨ってちょっと好き。
 デートの日に雨が降るのはイヤだって皆よく言ってるけど、でも、私たちがデートできるのは、雨の日くらいだもの。
 うきうきしながらそんな事考えて。
 はた、と私は足を止めた。
 ……電話かけるのも、デートにさそうのも、いつも私からのような気がするなあ。
 石田さんの優しい声を聞けるのは、一緒に居られるのは、とっても嬉しいから。だから、それは嫌じゃないんだけど。
 でも、私ばっかり好きみたいで、なんかちょっとシャクじゃない?
「お母さん、朝ご飯ちょうだい!」
 とりあえず私はダイニングテーブルに着いて、ゆっくり朝食をとる事にした。

 ご飯を食べ終えて、部屋に戻って。
 すぐ手の届く位置に携帯を置いて、ベッドに転がる。
 石田さん、早く電話かけてきてくれないかな。
 今日は友達皆予定入ってて、私も部活の応援とか差入れとか行く予定だったから、雨降って予定なくなって、すっごく暇してるよ?
「まだ、かなぁ……?」
 しばらくじっと待ってたけど、電話はこなくて。
 仕方ないから昨日買ったまままだ読んでない雑誌を広げて、じっくり読んでみた。星占いのページは、今月の私の恋愛運はイマイチだ、なんて書いてあるけど、そんな事気にしない。
 気になるのは、雑誌が全部読み終わっても電話がこない事の方よね。
 私は他に時間の使い方が思い浮かばなくて、兄さんに月刊プロテニスの最新号を借りに行った。それで部屋に戻ると、着メロが鳴ってる。
 慌てて手に取ったけど、残念ながら電話は石田さんからじゃなかった。着メロが違うから、そうだろうなーとは思ってたけど、もしかしたら公衆電話からかけてきてるかも、って期待したのになあ。
『もしもし、杏?』
「どうしたの?」
『なんか約束してた人が急に予定入っちゃってー。ヒマならこれからカラオケでも行かない?』
「えーっと……」
 暇な事は、暇なんだけど。
「ごめん。ちょっと今日はムリ! また今度ね」
『そっかー、判った。じゃーね!』
 プツリ、と切れる友達の声は、ちょっと切ない。
 ごめんね、友達がいのないヤツで。でも、石田さんから電話が来て、どっか行こう、って言われるかもしれないから。

 ぼんやり月刊プロテニスを読み終えた頃には、一時になってた。
 それでもやっぱり、石田さんからの電話はこない。
 なんでかな。石田さん、何か別の予定、入れちゃったのかなぁ。
 そうだよね。たまの休みを全部私のために裂くわけには、いかないよね。男の子の友達だっているんだし、今頃桜井くんとか、神尾くんたちと遊んでるかもしれない。
 判ってる、けど。
 やっぱりちょっと、寂しい、かな。
 私はとぼとぼ、って気分でダイニングに向かって、用意されていた軽い昼食をとって。
 食べてる最中に、ジャケットを羽織ってお財布をポケットに入れる兄さんと目が合った。
「あれ? 兄さん出かけるの?」
「ああ、少し買い物にな」
「そっか……」
 もうこんな時間だし。
 今日は家で時間を潰す覚悟、しようかな。

 兄さんに、見たかったけれど見逃した映画のビデオをレンタルしてきてもらうように頼んで、私はまた部屋に戻った。
 ベッドに転がって、ぼーっと天井見上げて。
 時間の使い方、こんなにヘタだったかなあ、私。でも、他にやる事考え付かないし。
 目を伏せて、視界を暗闇にすると、悔しい事に石田さんが浮かんできた。
 訂正。私ばっかり好きみたいで、シャクだなんて。
 みたいじゃなくて、本当に、私ばっかり好きなんだ、きっと。
 あーあ、早く兄さん、帰ってこないかなあ。映画でも見れば、別の事を考えられて、少しは気が晴れるのに。
 そんな風に色んな事考えて、ちょっとイライラして、朦朧としはじめた時。
 聞き慣れた、一番聞きたかった着メロに、意識を引き戻された。
 私は急いで起き上がって、携帯を手に取る。
「もしもし!? 石田さん!?」
『あ……杏ちゃん? 今平気?』
「うん、ぜんぜん平気!」
 たとえ今この時何かをしてたとしても、ずっと待ってた電話だもの、そっちを放って話を続けるよ、私。
「石田さんは、今何してるの?」
『あー、いや、別に、何も。暇だから朝からずっと家に居た』
 ……何、それ?
 だったらもっと早く、電話してくれればよかったのに!
『部活が急に休みになってさ、こう言う時、絶対杏ちゃん、電話かけてきてくれるだろう? だから少し待ってたんだけど、こないから、何か用事があるのかと思って』
 私がまだ声に出していない疑問に答えるように、石田さんは言った。
『けどやっぱり、ちょっと声が聞きたくなったんだ。杏ちゃんは今何してる? 外?』
 電話ごしだから、見えるわけがないんだけど。
 私は力いっぱい首を振った。
「ううん。私も石田さんと同じ。暇で暇でしょうがなくて、ぼーっとしてた」
『え?』
「ごめんね。ちょっと、ヘンな意地張ってたの。石田さんから電話かけてきてくれたら嬉しいなあって思って」
 電話の向こうから、短い沈黙。
 それを破る、優しく、小さく、吹き出す声。笑い声は少しずつ大きくなって、はっきり聞き取れるようになった頃には、私も一緒になって笑ってた。
 ごめんね、石田さん。
 ひとり卑屈になって、ヘンな、試すような事しちゃって。
『じゃあ、杏ちゃん』
 必死になって笑いをこらえてるって感じの声で、石田さんは言う。
『よかったらこれから一緒に出かけないか?』
「もちろん! 今すぐ準備して出るから、えっとそうだな、二時半に駅前で、いい?」
『ああ、じゃあ、待ってる』
「うん、バイバイ!」
 ピ。
 いつもなら名残惜しくて、ちょっと悲しい、電話を切った証の電子音。
 でも今はぜんぜん、寂しくなんかないわ。
 だって声を聞くよりも嬉しい約束が、私を待ってるから。


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