熱帯魚

 ショーウィンドウ越しに見える水槽を指差して、「あれはダビデみたいだね」と剣太郎が言った。
 言われて剣太郎の指し示す先を見てみると、そこにはひらひらとけだるそうに泳ぐ赤い熱帯魚が居て、確かにそれは剣太郎の言う通り、練習でぐったり疲れたか、あるいはダジャレを考え込んでいる時の、動作が緩慢になったダビデを彷彿させた。
「確かに似てるかもな」
「サエさんもそう思う? じゃあこいつの名前はダビデにしよう」
 名前をつけて、愛着を持ってしまうと、誰かに買われて姿が見えなくなった時に、寂しくなるものだし。
「売り物に勝手に名前をつけるのは良くないんじゃない……」
 剣太郎は、せっかくの俺の忠告を聞いているのかいないのか(多分聞いていない)、小走りで駆けて行って、自動ドアが開くまでの間にもたつきながらも、店の中に入っていってしまった。
「せめて一言断わってからにしてほしいね」
 俺は苦笑しながらも、だけどけしてイヤな気分にはならず、剣太郎を追いかけて店の中に入る。
 この店は通りがかりによく見かけるけれど、俺は熱帯魚にさしたる興味がないので、今まで足を踏み入れた事はなかった。おそらく、剣太郎もだろう。
 はじめての店に足を踏み入れる時の、ある種の緊張感を覚えつつも、綺麗な熱帯魚の入った水槽が並んでいる様子を眺めるのはけっこう爽快だった。外は立っているだけで汗ばむような陽気になりつつあるけれど、それを吹き飛ばしてくれるかのように、涼しげだ。
「サエさんサエさん」
 自動ドアがギリギリ開かない辺りに立っていた俺を呼ぶ、剣太郎の声。
 声のした方を向くと、「こっちにきて」とばかりに手招きをする剣太郎が居た。
「どうした?」
「さっきのがダビデなら、サエさんはこれかなと思って」
 水槽に手をついて、わずかに目を細めながら、剣太郎は魚を眺める。
 透き通りそうなレモンイエローに、薄い茶色の線で模様が入ったその魚は、いったいどんな種類なのかも判らなかったけれど、少なくとも素人目にはとても綺麗に映った。
「光栄、なのかな?」
 この魚が俺のイメージなのだと言うのならば、光栄な事とは思うけれど。
 黄色に茶色の線が単純に虎っぽいから、と言う理由なら、それほど嬉しくない気がする。
「気に入らない? さっきのダビデより綺麗だと思うけど」
 にっこり笑う剣太郎に、理由を問うのは墓穴を掘るだけのような気がしたので、俺は「そうだね」とだけ答えて、他の水槽に視線を移した。
 何十種類もの熱帯魚たちは、よくもまあこんな色が自然界に発生したものだ、と感心してしまうような綺麗な色を持つものばかりで、生臭いとか手入れが面倒だとか言うのを忘れれば、ぜひ家で飼ってみたいと思わせる。俺はその生臭さや面倒くささを忘れられるほど単純な思考をしていないから(そして面倒くささを楽しめるほど魚好きではないから)、絶対に飼わないけれどね。
「じゃあ、あれがバネ、かな?」
 一番高い位置に置かれた水槽には、深い青色を持つ熱帯魚が居た。暗闇に紛れられるような、水の中でもなお青さを主張するような、不思議な色。
「あ、それっぽい。うん、じゃあ、あれがバネさんだ! ええと、じゃあ次は……オジイとかさがしてみようか?」
「オジイ? 居るかな、この中に」
 不思議と楽しくなってきた俺たちは、店内をゆっくりぐるっと回り、部員ひとりひとりに魚を当てはめていく(店員はさぞ迷惑していた事だろう)。
 熱帯魚だけでは種類が限られているため、あとあと苦しくなってしまい、剣太郎はとうとう、店の奥の方にあったドジョウやらメダカやらゴカイ(釣り餌まで売っているらしい)やら水草やらを使いはじめた。早めにあの黄色い熱帯魚に決めてもらってよかった、と俺は心底安堵しつつ、ドジョウやメダカはともかく、ゴカイや水草に当てはめられた奴らには、この事は内緒にしようと心に誓う。
「あれ、そう言えば」
「ん?」
「誰か足りないと思ったら、まだ剣太郎が決まってなかった」
「ああ、いいよ、ボクは。みんなみたいに華やかじゃないからさ、ここにいないピラニアとかで」
 俺はガラにもなくぎょっとして、剣太郎に負けないくらいに目を大きく見開いて、剣太郎を見下ろした。
「どう言う事かな、それは。のんきに泳いでいる俺たちを獲って食って、最後にひとり残るつもりだったりする?」
 どんな意味を込めて言ったんだ?
 問い詰めるように俺が微笑むと、剣太郎はまばたきを数回繰り返し、それからにっこり満面の笑みを浮かべる。
 ほら。
 だからウチの一年生部長は、侮れないんだ。


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