バレンタイン

 不動峰中学男子テニス部一年、全部で六人。
 真冬の冷たい部室の中で、膝を抱えて地べたに腰を降ろす。お互いの顔が見られるように、円を描いて。
 今日は橘さん、珍しく慌てるように帰ったから、今日は俺たちだけで一年生会議だ。
「俺は橘さんに感謝してるんだ」
 言い出したのは、桜井だった。「俺も」「俺だって!」とか言って、皆が桜井に同意する。もちろん、俺もだ!
「感謝してるのに、橘さんは色んなもんを俺たちにくれたのに……なんにも返せないなんて、悔しいな」
 石田が言う。石田の意見と同じだって事を、今度は皆、黙り込む事で示した。もちろん、俺も。
 橘さんは俺たちの救世主だ。神様だ。
 先輩たちのいびりから俺たちを助けてくれて、コートを作ってくれて、あの顧問を追い出してくれた。
 そんで、テニスを教えてくれる。判らない時は勉強も教えてくれる。ぶっちゃけ俺なんかほとんど毎日聞いてる。ほんとに優しくて頼もしい、いい先輩で、俺たちは皆橘さんの事を尊敬していて。
 橘さんはこんなに俺たちに良くしてくれるのに。
 なのに、俺たちが橘さんのためにしてあげられる事は、何もない。この間橘さんが喉を痛めた時、のどあめ差入れたけど、ホントそんくらいだよな。
「何か恩返ししたいよな」
「でも、いきなりプレゼントとかしたら引くよな、絶対」
「誕生日にかこつけるにも、橘さん八月生まれだし」
「誕生日終わってすぐに来たんだなー、橘さん」
「橘さんに誕生日プレゼントあげる前に、アキラ以外全員貰っちゃうな」
「全然意味ないね、それ……」
 俺たちは全員揃って、はあーっと深いため息。
 恩返しすらさせてくれないなんて、橘さんってやっぱりどっか完璧だ。
「引かれない程度の安いもの贈る? ネーム入りタオルとか」
「部長に片想いするマネージャーじゃあるまいし。誕生日だったとしても引くな、そんなもん男から貰うの」
 あはははは、と六人揃って笑って、それからまた肩を落とす。
 俺たちって、橘さんの役に立たないだけじゃなくて、馬鹿だよな。誰かひとりくらいマトモな案出せっての。人の事言えねーけど。
「そう言えば……もうすぐバレンタインだよね」
 ふと、沈黙を破って、深司が突然そんな事を言った。
 部室の中の空気が、一気にさあーっと冷えていく。
「いや、深司、それはどうかと思うぞ、さすがに……」
「ネーム入りタオルより引くっつうの。確実に」
「てかお前がやるとシャレになんないからやめとけよ、深司」
 深司を懸命に止める森、桜井、内村の行動は正しいと俺も思ったけど、最後の内村の止め方は、ヤバかったな。深司は何も言わないけど、ありゃそうとうムカついてるぞ。目つきが怖い。
 よかった、俺、内村に出遅れて。
「でも……悪くないかもしれない。それ」
 石田が小さくつぶやいて、部室の雰囲気は更に冷え、なんつうかもう絶対零度。マジかよ石田。
「熱でもあるのか? 石田」
 桜井が、皆が聞きたかった事を代表して聞いた。
 そうすっと石田は、ちょっと怒ったように答える。
「俺たちから橘さんにチョコを渡すのは、俺だってどうかと思うぞ。そうじゃなくて、なんて言うのかな……橘さんがたくさんチョコを貰ったらいいなあ、って思って」
 ああ、と皆が胸を撫で下ろして、空気が和らいだ。
 まったく。最初からそう言ってくれりゃ変な誤解しなくてすんだんだぞ、石田!
「そうだよな。バレンタインのチョコレートの数って男のステイタスだもんな」
「家に持ち帰って、お母さんとか杏ちゃんとかに、『すごい!』って言われててほしい」
「言われなきゃ駄目だ! でも、どれくらい貰ったら母親や妹に自慢できるだろう」
「俺なら一個でも自慢するけど」
「バッカお前と橘さんを一緒にするなよ」
 とかいいつつ、俺も多分一個でも貰ったら自慢するだろうなと思った。あるいは、照れくさくて隠すか、どっちかだ。
「やっぱり自分で食べきれなくて家族に分けないとならないくらいが自慢のしどころじゃないの」
 深司の発言に、また、シーンとなって。
 なんか深司が言うと、妙にリアルに感じるのはなんでだろう。こいつなら、家族に自慢できるほどチョコレートを貰っていそうだからかな。本命はなさそうだけど。
 あーあ……今年は誰か一個くらい、くれねぇかな、俺に。あ、杏ちゃんとか。
 なんてこの時思ったのは、どうやら俺だけじゃなさそうっつうか、深司以外全員っぽいところが泣ける。
「家族に分けられるくらいって……どんくらいだ?」
「って言うかさ、はいはい! 意見!」
 森が珍しく思いきり手を上げて、はい、と桜井が森を指した。あれ、いつのまに桜井が司会進行役になってんだろ。まあいいか。いつもの事だし。
「橘さんは、お母さんと杏ちゃんから、チョコ、貰うよな?」
「貰うだろうな」
「だったらやっぱり、家族から貰うのよりは多くないと、自慢できないんじゃないかな」
 なるほど、って俺たち全員、森の意見に頷く。
「じゃあ、最低三個だな」
「いやちょっとまて。おばさんと杏ちゃんが手作りだったら問題じゃねえ? 手作りの威力は買っただけのやつの倍かそれ以上威力あるぞ」
「そんじゃ、六個……足りないか?」
「いっそノルマひとり二個で十二個にしちゃえば」
「そうだな、それくらいあれば完璧だ」
「よし、決定だ。ひとり二個ずつ匿名で橘さんにチョコを贈る!」
 相談した結果をまとめて、俺がきっぱり発言すると、パチパチパチ……とまばらな拍手が部室の中に響いた。
 さて、これで一番重要なところは決まったけど、まだ大きな問題があるんだよなー。
「なあ深司。金は出すからさ、俺の分のチョコ買ってきてくれねーか?」
 俺は隣に座る深司に、両手を合わせてお願いした。
 だってよう、この時期どこに行ってもラッピングされたチョコは売っているけど、あの女だらけのチョコ売り場に、男子中学生が入るなんて拷問に近くねえ? 俺正直言って、行きたくない。
「なんで俺に頼むわけ……?」
「いや、ほら、お前なら、神経図太いし、私服で行けば女と間違えてもらえそうだし。人助けだと思って六人分、買ってきてくれよ」
「やだ」
 深司に買ってきてもらおう作戦、大失敗だ。ちくしょう。
 ええと、他にいい案はないかぁ?
「あ、石田! お前行ってこいよ!」
 突然名案が思い付いた、って感じの顔で、桜井が石田に振り返る。
 なんで石田? なんかこん中で一番、チョコともバレンタインとも縁なさそうだぞ、こいつ。
「な、なんでだよ!」
「お前が行けば、どう見たって罰ゲームだろ? 店のねーちゃん達も同情してくれるって!」
 あ、なるほどな。ワリと頭いいよな、桜井って。
「絶対行かねえ!」
 あ、石田まで怒った。
「じゃあもう森で決定だな」
 内村が突然言うと、森が慌てて内村に反論する。
「どうしてだよ! 俺だってやだよ!」
「なんか妹に頼まれて一緒にチョコを作るために材料を買いに来た優しい兄貴っぽいじゃん、お前」
「それじゃあチョコの材料しか買えないだろ。俺が材料買ってきたら、お前作るのか!?」
 必死の森に内村は負けちまったみたいだ。腕を組んで唇を噛んで、黙り込んだ。
 まあ、な。家でチョコ作ってるたら、家族に言い訳できねーよな……。しかもバレンタイン用だからきっと、ハート型とかだ。最悪だ。
 俺たちは難しい顔をつき合わせて、腕を組んで、黙って考え込む。
 本当に、本当に、俺たちは無力で、ガキだなあ。
 橘さんは俺たちよりたった一年早く生まれただけなのに、なんであんなにすごいんだろう。なんであんな風に簡単に、人を喜ばせる事ができるんだろう。
 あんまりにも惨めで、いっそ泣きたい気分になった時。
 誰かの小さく吹き出した声が聞こえた。
「誰だ、笑ったヤツ。深司じゃねーのは判った」
「アキラじゃないの?」
「ちげーよ」
「って言うか俺、今の、橘さんの声に聞こえた……」
 冷静な石田の意見に、全員が一斉にたちあがり、視線をドアに集めた。
 キイィ、とゆっくりドアが開いて、そこに居たのは帰ったはずの橘さん。なんか、笑いを必死にこらえてるって感じの、顔してる。
「すまん、盗み聞きするつもりはなかったんだが、入りにくくてつい、な」
「たたた、橘さん! 帰ったんじゃなかったんですか!?」
「忘れ物を思い出したから引き返してきた」
「いつからそこに居たんですか!?」
「バレンタインがどうのとお前らが言い出したあたりだ。ああ、一応言っておくが、お前らからはいらないぞ、チョコレート」
 俺たちは――って、深司はいつもどおりだったけど他の五人は――あまりの恥ずかしさに、顔を真っ赤にして俯いた。
 あんなアホな会話、よりによって橘さんに聞かれてたなんて! うわー、うわー、もう、どうしよう! 恥ずかしすぎるっつうの! ほんっと、俺たちってバカ!
「お前たちは俺を喜ばせようとしてくれているようだがな、俺は、お前らが日に日に強くなって、『全国』って目標が現実味を増す……それだけで充分すぎるほど嬉しいぞ」
 この時、たまたま橘さんの一番近くに居たのが、俺で。
 それはすごく、運が良かったんだと思う。
 橘さんの手が届いたのは、俺の頭だけだったから、だから俺の頭に橘さんの手が乗って、くしゃくしゃってされて。
 そんで橘さんは、微笑みながら言ったんだ。
「これ以上俺を喜ばせてどうするんだ、お前ら」
 橘さんは、なんでこんなに優しくて、大人で。
 これ以上喜ばせてどうするんだ、なんて、俺たちの台詞だろ、絶対!
「それに正直な所を言うとそんな事をされても嬉しくない。むしろ、惨めだ」
「あ、す、すみません橘さん。俺たち余計な事しちゃって……いやまだしてないですけど」
「ああ、頼むから一生するな、そんな事」
『はい!』
 六人の声が重なった返事が響き渡ると、俺は感極まって目の前の橘さんにしがみついた。「あ、ズリーぞアキラ!」とか言って、他の五人も橘さんにしがみついたり、そうしなくても(石田なんてできないだろ、どう考えても)そばに近付いて来たり。
 橘さんはそんな俺たちの頭とか背中を、「重いぞお前ら、とっとと離れろ」なんて言いながら、ひとりずつぽんぽん、って叩いてくれた。

 バレンタイン当日。
 俺たちが余計な事しなくても、橘さんはけっこうチョコもらってて、ほっとした。
 そんでもって俺たち全員、杏ちゃんからチョコもらって幸せだった。


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