遠浅

 純粋で無邪気な子供はそれゆえに残酷だと。
 一応まだ子供の枠に納まっているはずの俺は、悟った。
 なぜ悟る事ができたのかと言うと、それは多分、俺が一般中学生と同じように、純粋さや無邪気さを失いながら歳を重ねてきた事に対し、目の前に居る二学年ほど歳下の葵剣太郎が、純粋さや無邪気さをまったくと言っていいほど失わずに歳を重ねているからだ。
 彼のおかげで俺は、中学生にもなると、純粋だとか無邪気だとか言う言葉が、必ずしも誉め言葉ではないのだとも、悟った。
 たとえば。
 そう、たとえば、アリの巣を水攻めにして全滅させたり、昆虫の触覚を引き抜いたり、蝶の羽を引き千切ったり。
 そう言う、子供が純粋であるがゆえの好奇心で行う事を、幼稚園や小学生ならば、怒られつつも命の大切さについて説教されながら許される事なのだろうけれど、中学生がやったら残虐行為を行ったとして周りにかなり引かれるはずで、困った事に今俺の目の前に居る少年は、それを平然とやってのけると思われる。
 正直言って、長い付き合いの俺でさえたまに引くんだから、中学からの付き合いの奴らは、近寄るのも怖いんじゃないかな。
「葵はきっと、服を着ていない王様に向かって、迷いもせずに笑いながら指差して、『裸だ』って言うんだろうね」
 昼間の陽射しを浴び続けていたせいで砂浜はとても熱くなっていたけれど、俺が立っている波打ち際は寄せては返す波に冷やされて、裸足で立つにはちょうどいい温度になっている。
 西の空がオレンジ色に染まりはじめた頃、俺たちは練習を切り上げて、海と戯れにきていた――大抵のヤツがウェアのまま泳ぎ始めて(そのウェア、明日も練習で着るだろうに)、砂浜に残っているのは俺と葵とヤツらが脱ぎ捨てたジャージや靴だけ。
「は? サエさん何言ってるの?」
 砂の城でも作りたいのか、それとも見当違いの潮干狩りをしようとしているのか、しゃがんでいた葵は首を傾けて俺を見上げた。
「いいや、副部長としてちょっと忠告をしておこうかと。さっきのバネ、結構ヘコんでたよ」
「なんで?」
 ほら、そう言って不思議そうに首を傾げる辺り、まったくタチが悪い。
 普通ヘコむだろう?
「うわあ、バネさん、すごい! あんな絶妙なロブが上がってるのに、スマッシュをアウトにしちゃうなんて! どうすればそうなるの? マネしないですむように、教えてよ!」
 なんて言われたら(しかもそのアウトが決定打になって、バネは負けた)。
 いや、俺は……と言うより、六角中の皆が、判ってはいる。葵に悪気がない事くらい。
 それに皆だって、アレをアウトにするバネはどうかと思っていただろうね。単に手元が狂ったにしても、バネのフォームに決定的な歪みがあるのだとしても、研究の余地があると思うくらいには。
 ……そうだな。
 葵の質問は、今思えば的を射ていたのかもしれないね。あのミスを何事もなかったように流していては、バネの向上を妨げる事になるかもしれないから。
 だから、葵はタチが悪い。
 言動だけを見ていると、空気も読めないほどに頭が悪いだけに見えない事もないけれど、本当は賢くて抜け目がない。きっと本能的に計算高いんだ、葵は――俺と違って、ね。
「そうだな、きっと、ヘコむバネの方が悪いんだ」
 だから葵は無邪気で、それゆえに残酷で、好奇心と探求心に溢れていて。
 そこからやってくる向上心には、勝てないなあとときどき思う。俺はまだまだ若いはずなんだけど、歳を感じてしまうよ、まったく。
「ねえサエさん」
 葵はドロ(?)まみれになった手を少しだけ大きな波に晒して汚れを落とすと、立ち上がり、水平線を見つめた。背中から襲ってくる西日に照らされた、オレンジ色の海を。
「この海の中、ずっとずっと真っ直ぐ歩いていったらどこに辿り着くかなあ」
 それも、好奇心、か?
「気にするのはいいけれど、やったらだめだよ」
「いきなり止めるんだ」
「お前が死んだら、合宿中に生徒を事故で死なせたって、オジイは監督不行届きでクビ。六角中テニス部の未来もなくなるだろ?」
「ひどいなあサエさん。ボクの心配はしてくれないんだ?」
「するさもちろん。それを大前提として、オジイとテニス部の心配をしているんだよ」
 とてもそうは聞こえなかったよ? と葵は笑って、一歩二歩、と海に向かって歩みを進める。
「あ、葵!」
 俺はひどく慌てて、葵のあとを追いかけて、肩を掴む。
 普通なら、ありえないと判っているけれど。
 こいつは普通じゃないから、本当に、いける限り海の中を歩いていってしまいそうで。
 本当にそんな事をしたら、その先で待っているのはどこかの小島や、大陸じゃない。死、だけだろう?
「ホントに心配してくれたんだ、サエさん」
 ……試すなよ、そんな事。ほんと困った奴だな、お前。
「でも大丈夫じゃないかな。ここの海は遠浅だから、昼間の練習でほとんど消耗した体力がなくなるまで歩いていっても、まだ浅瀬だと思うんだ」
「意味が判らないな。救助隊が発見しやすいって事?」
「うん。だからボクは死なないと思うよ」
 どこからくるんだか、その自信。
 そしてどうしてそんな確かめても大して意味のなさそうな事に、好奇心を疼かせるんだか。
 やっぱり葵は、ただのバカかもしれない。
「お前が生きていようと死んでいようと、そんな事になったらオジイは監督不行届きでクビだと思うけど?」
「あ、そっか。じゃあやめとこ。あと何年もつか判らないけど、死ぬまでテニスに関わってたいよね、きっと、オジイは」
 葵は踵を返し、俺の横をすり抜けて、乾いた砂浜まで戻ってくれた。何気に辛口な事を言いながら。
「家に帰ったら、地図帳を見るといいよ。ここから真っ直ぐ行ったら何があるか、判る」
「それじゃあつまんないんだよね。与えられる知識より、実践で覚えた知識の方が、重要なんでしょ?」
「その心意気はすばらしいけれど、実践していい事と悪い事があるから――それに、どうせ実践したところで絶対に確かめられないわけだし、地図帳で我慢してくれないかな、部長サン。そうしたら明日、昼間のバネのスマッシュがなぜアウトになったかの研究、ダビデとバネに協力してもらって、試合の再現込みで付き合ってあげるから。六角中一の俺の動体視力でじっくり見れば、原因究明も簡単だろうさ」
「ほんとに!? わーい、サエさん、ありがとう!」
 そんなに喜ぶ事なのかな、それは。
 俺は苦笑しつつ、はしゃぐ葵を見下ろして、それから海の方に視線をずらして目を凝らし、息継ぎで顔を上げた瞬間のバネを両目に捕える。
 ただでさえヘコんでいたバネには、可哀想かもしれないけど。
 オジイと六角中の未来のために、バネの向上のためでもある事だし、犠牲になってもらおうか。


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