不二と菊丸。部室に入って来た瞬間から、ふたりの雰囲気はおかしかった。 さて、どうした事だろう。朝練の時は間違いなく、いつも通りのふたりだった。片方は穏やかに、片方は明るくうるさいほどに笑い、楽しそうに語らっていたのだが。 授業中に何かあったのだろうか。今は互いの顔を見ようともしない。わざとらしいほど離れたロッカーを使い、着替え、間に居る大石や河村を困惑させている。 「どうしたんだ、英二」 「何かあったの? 不二」 「触らぬ神に祟りなし」とばかりにふたりを無視する他の部員(俺も含む)とは違い、人のいいふたりは、険悪なムードをどうにかしようとそれぞれの相棒に語りかけた。 「何でもないよ、タカさん」 不二はしれっと笑顔で河村をかわしたが。 ゴールデンペアの方はそうもいかない。菊丸に、そんな上手い逃げができるわけもない。 「どうもしないよっ」 「おもいっきりどうかしてるぞ?」 「大石うるさい! ごちゃごちゃ言ってる暇があったら練習だろ!」 その台詞、お前にだけは言われたくないと思うんだがな。 俺は珍しいデータが取れないものかとノートを開き、大石の反応を見守ったが、大石の取った反応は特に目新しいものではなかった。今日の大石は、体調も精神もバランスが取れているらしい。 「英二、少し落着いて、何があったか話してみてくれないか。このままじゃ練習に身が入らないだろう? 英二も、俺だってそうだ」 「俺は平気だもんねー」 「英二」 大石が静かに、それでいて強く、菊丸の名を呼ぶ。 するとなんとなく居心地悪そうになった菊丸は、困り果てた様子をありありと顔に出したあと、不二の方をちらりと覗き見、わざとらしく顔を反らした。 「やっぱ話す事なんて、ない!」 「英二……どうして」 「ふうん。話せないんだ。そうだよね、大石はきっと君を否定する。自分から敗北の海に飛び込む根性なんてないよね、英二は」 着替えを終えた不二は、もめるゴールデンペアの方に振り返り、勝ち誇ったように笑った。 ふむ……想像以上に険悪だな、今の三年六組コンビは。一体何があったんだ? 「大石、僕から話すよ。きっと君なら僕の怒りを判ってくれると思うから」 「は……はあ」 睨み合う不二と菊丸の間に挟まれる形になった大石は。 とりあえず数歩下がって、河村の隣に非難する。ああ、そうだな、そこは安全圏だ。少なくとも精神的には。 「今日うちの担任がね、家の庭から摘んできたと言う菜の花を、花瓶にいけて飾ったんだよ」 「うん」 「それを見て英二はなんて言ったと思う?」 大石は一瞬の沈黙のあと。 「ああ……ええと、なんとなく、判ったよ」 がっくりと、肩を落とした。 なんだと大石。今の不二の説明だけで判ったと言うのか? ゴールデンペアの間に通じるものには、俺のデータすら敵わないのか? ……正直、悔しいな。 「美味そうだって、言ったんだな、英二」 「そーだよ! そう言って何が悪いんだよ! だってうまいじゃん、菜の花! からしマヨネーズにあえたりすると、すっげうまいんだぜ! 不二んちは金持ちだから、わかんねーんだろうけど!」 「僕だって普通のおひたしだけど菜の花を食べた事くらいあるよ。そうじゃなくて……花瓶に生けてあったんだよ、菜の花は。まず『綺麗だ』って言う感想が出てくるのが当然だろう?」 河村がひきつった笑みで、ぼんやりと立ち尽くしている。 その隣に居たはずの大石は、頭を抱えてしゃがみ込む。お疲れさま、大石。 「大石なら僕の気持ちを、判ってくれると思ったけど」 「ああ……うん、まあ、どっちかって言えば、俺は不二派だけどさ……」 「そーなの大石!? 食べ物は大切にしないとダメだろ!」 「だから花瓶に生けてある花はまだ食べ物じゃないんだよ、英二」 なぜ不二が、菊丸が、菜の花のためにそこまで怒るのか、俺のデータは教えてくれないが。 大石が今何を想っているかは、はっきりと教えてくれる。 「そんなくだらない事で回りに迷惑をかけるほどの喧嘩するなよ、お前ら……」と言ったところだろう? 大石。まったく、俺も同意見だよ。おそらく、この部室に居るほとんどの人間もな。 「タカさんはどう思う!?」 「ええと、ごめん。俺は中立に立たせてもらうよ。ははは……」 「じゃあ桃は!?」 「え? 俺ッスか? そりゃ英二先輩派に決まってますよ」 「ほらみろ!」 菊丸が胸を張って自分の意見の正しさをアピールするが、不二も負けてはいない。確実に自分の味方をしてくれる人物を選び、声をかける。 「海堂は僕と同じ意見だよね?」 「当然ッスよ。何でも食う事しか考えないそのバカと一緒にしないでください」 「んだとマムシ!」 「やんのかコラ!」 「こらこら、お前たちまで喧嘩をするな!」 また大石の苦労がひとつ増えたらしい。ここまでくると見ていて少々、哀れだ。 俺は大石を手伝おうかと腰を浮かせたが、見かねた河村が桃城を羽交い締めにして止めていたので(海堂は、大石が止めている)、出る幕がなくなった。では今まで通り、のんびり見学させてもらおう。 「乾はどうだよ!」 おや、今度の標的は俺か。 「本当に君は馬鹿だね、英二。乾に聞いたって菜の花の栄養成分が返ってくるだけに決まってるのに」 そこまで言うか、不二。 ……本当にそうするつもりだったから、反論できないがな。 「バカバカ言われんのはむかつくけど……たしかにそーだな」 ふたりはそうして俺の存在をあっさり無視し、部室内に残っている他の部員たちから、ひとりでも多くの同志を集めようと行動をはじめた。とは言え、海堂と桃城が喧嘩をはじめた頃に、ほとんどの部員は部室から避難してしまったのだが。賢明な判断だ。 「何をしている」 そんな騒がしい部室の中に、低い声が響き渡った。 我らが部長、青学最強の男の登場に、部員たちは静かになり――大石ひとりだけが、慌てはじめる。 「すまん、手塚! 先に部活はじめてるって言ったのにな」 「一体どう言う――」 「そうだ、手塚に聞いてみようか」 ザワリ、と部室の空気が毛羽立つ。 なんと恐れ知らずな男なんだ不二周助! と誰もが無言で、目で訴えていた。 「ねえ手塚。菜の花は愛でるものだと思う? 味わうものだと思う?」 「何の事だ」 「いいから率直に答えてよ。そうしたら僕たち、おとなしくグラウンド二十周走るから」 桃城が「不二先輩の言う『僕たち』に、俺ら含まれるんッスかね?」などとのんきに聞いて、大石は頭を抱えながら「当然だろ」と答えているが。 それ以外の連中は皆、手塚の回答を待つために視線を手塚に集めていた。 多くの視線に気圧される事のない手塚は、不二の横をすり抜け、ロッカーに向かいながら、 「愛でてから味わえば良いだろう」 そっけなくそう答えた。 手塚、それですんだら大石が職務放棄するほどの喧嘩にはならないだろう……。 「それもそうだね。ただ枯らすのも、可哀想だし」 「そーだな。やっぱキレイだもんな、菜の花」 すむのか、お前ら。 「今はフツーに飾っておいて、あさって俺、夕飯つくんなきゃいけないから、持ってかえらせてもらおっかな」 「ああ、いいんじゃない、それ」 「だろ?」 「僕も食べたいなあ。ご馳走になりに行ってもいい?」 「いいぜっ、じゃあ、ひとり分多く材料買わねーとなっ」 「頼むよ。ふふっ、楽しみだな」 朗らかに、笑い合いながら、ふたりはグラウンドを走るために部室を出ていく。 まあ……仲がいいのは良い事だが……。 俺は何とも言えない気持ちになって立ち上がり、ぐるりと一周、部室の中を見回した。 一番印象強く目に焼き付いた光景が、全てを悟ったような顔をして微笑みあう大石と河村の姿であった事は、わざわざ語るまでもないだろう。 |