のどあめ

 朝起きた時、声が出なかったので驚いた。
 出そうと思えば出ない事はなかったが、喉に酷い痛みを覚える上に、ずいぶんと掠れている。
 風邪でもひいたのだろうか? 確かに昨日の練習中、突然雨に降られたために濡れはしたが……あの程度で風邪をひくほどヤワな体のつくりをしているつもりはない。しかもすぐに練習を切り上げ、家に帰ってきてゆっくり風呂につかり、できる限り温かくして寝たつもりだ。
 まあ喉以外に問題は無いだろう。体はだるくない。熱もなさそうだ。
 俺は手早く支度をし、朝練に出るために学校へ向かった。

「橘さん、おはようございます!」
 俺が部室に到着した時には、すでに石田が居た。
「おはよう」といつもどおりに返そうとした俺だったが、声が上手く出ない。返答が無い事にいぶかしむ石田には悪いが、「ちょっと待ってくれ」と手のひらを突き出す事で表現し、俺は生徒手帳とボールペンを取り出す。
『どうやらノドをヤッちまったようだ。声が出ない』
 それだけ書いて石田の視線の高さに生徒手帳を掲げると、予想していた事なんだが、石田は少し慌だした。
「だ、大丈夫ですか橘さん! 保健室……はまだ先生居ないですよね。えっと、じゃあ、朝練なんてしないで、家で休んでいた方がいいんじゃないですか!?」
 俺は否、と首を振る事で答え、それから再びボールペンを滑らせる。
『ノド以外は健康だ。指示は出せないから適当に練習しろ』
「適当って……はあ、まあ、いつも通りの練習をすればいいんでしょうけど」
 俺は肯いた。
 そして最初に会った部員が、石田で良かったと心底思った。これが桜井ならともかく、神尾や内村、森あたりならば必要以上に動揺し、もっと長い(筆談による)説明と説得が必要だっただろう。
「とりあえず橘さん、あんまり無茶しないでくださいよ」
 石田の労わりの言葉に答えるよう、俺は苦笑しながら肯いた。

 次々と現れる部員たちに石田が俺の体調の事を説明し、俺が少しでも咳をしようものならヤツらに過剰に心配されると言うこそばゆい朝練の時間を終え、授業がはじまる。
 朝一で担任に(筆談で)喉の事を説明しておいたから、今日は丸一日、授業中に当てられる事は無いようだ。指されるスリルの無い聞いているだけの授業ってのは、案外退屈なモンだと気付く。
 そうして一時間目の国語の授業が平和に終わり、短い休憩時間に次の授業の準備をしていると、荒い足音が廊下から響いてきた。
 誰だ一体。小学校の頃から廊下は走るなって言われてるだろう。そう言われて走った事の無いヤツはそうそう居ないだろうが、ここまで派手に走るヤツもそう居ない。
「橘さん!」
 ガラッ、と足音に負けない荒々しい音を立て、開かれたドアから姿を見せるのは――神尾、か?
「か」
「あー、いいですいいです橘さん。何も言わないでいいですから!」
 神尾は臆する事無く、ズカズカと教室の中に入ってきた。
 ……普通の一年は二年の教室に来るだけでも緊張するんじゃねえのか? そこまで堂々と入ってこられるのか? あと、開けたドアはちゃんと閉めろ。
 言いたい事は沢山あるんだが、筆談してまで伝える必要があるのは最後のひとつだけだ。しかしそれも、廊下側の一番後ろの席に座るクラスメイトが、こっちを見て笑いながらドアを閉めてくれたおかげで緊急性がなくなった。ありがたい。感謝の気持ちは手を上げる事で表現する。
「橘さん、俺、ちょっとひとっ走り行って、買ってきました。良かったら舐めてください!」
 そう言って神尾がポケットから取り出したものは、近くのコンビニのシールが張られたのどあめだった。
 神尾の足の速さから考えると、一時間目が終わってすぐにコンビニに買いに行ったんだろうが……よく見ると、うっすらと汗をかいている。
 あのな、神尾。一応校則では、休み時間とは言え買出しに出るのは禁止されているはずだ。それ以前に、校内に飲食物を持ち込むのが禁止だ。
 説教してやりたい気持ちは大きいんだが、声が出なければやりにくい。筆談では時間がかかる。
 俺はどうしたものかと頭を抱え、溜息を吐いた。
「あ、あれ? 橘さんもしかして、グレープフルーツのどあめ、苦手ですか?」
 どうしてそうなる。
「これ結構美味いですよ! それに、割と効きますし! のどあめイコールかりんなんて考えは、古いと思います!」
 そうじゃない。そうじゃないんだ神尾。俺が困っているのは。
「あれ? 神尾じゃん。なんでここにいるのさ」 
「失礼します」
 俺が目を伏せて考え込んでいると、聞き慣れた声がふたつ、教室の入り口から聞こえてきた。
 ……深司と、桜井?
「何しに来たんだ? お前ら」
「別に、神尾に関係無いし」
「なんだとー!?」
「あ、橘さん、俺、この間風邪引いたときに持たされてたののあまり、鞄の中に入ってたの思い出して、持ってきたんですけど」
 神尾が絡んできているのを鮮やかに無視し、深司は俺の側まで歩み寄り、のどあめをひとつのせた手のひらを突き出した。俺が反射的に手を出すと、ころり、とのどあめは俺の手のひらに移る。
「深司ものどあめ持ってきたのか。俺もです橘さん。クラスの女子が持ってたんで、分けてもらって」
 続いて桜井も、俺の手のひらにのどあめを乗せた。
 すると神尾も対抗するように、買ってきたグレープフルーツのどあめを、俺の手のひらに乗せる。
 反応に困った俺は、とりあえず貰ったのどあめ全てを、机の上に移した。深司のはオーソドックスなかりんエキス配合、桜井のはどうもミント系のようだ。
 のどあめとひとつとっても色々種類があるもんだな、とうっかり感心してしまった。
「失礼します」
「橘さん!」
「あれー? 何で皆揃ってるんだ?」
 ……そんな予感は、していたんだが。
 三度入り口を見やると、そこには内村と森が並んでいて、後ろに石田が立っている。
「橘さん、コレコレ、俺のオススメ、マスカットのどあめ! 食べてくださいよ! 美味いですよ!」
「マスカット? 内村って結構マニアックな趣味だな。あ、橘さん、これ、梅のどあめなんですけど」
「なんでお前らそんなヘンな味買ってくるんだ?」
「そう言う石田は?」
「黒糖のどあめ」
「バーカどう考えてもそれが一番ヤバイって!」
「そうか? 美味そうだと思ったんだけどな」
 いや、だからな。もう味がどうのと言う問題じゃねーだろ、お前ら。
「あ、もうすぐチャイム鳴っちゃうな。じゃあ橘さん、置いていきますから、好きな時に好きなだけ、食べてくださいね」
「アメは食べるじゃなくて舐めるだろ?」
「アキラのクセにこまけーよ」
「なんだよアキラのくせにって!」
 ……いや、だからな、お前ら。
「あんまり騒いだら迷惑だよ、皆」
「そうだ、さっさと帰ろう。じゃあ橘さん、失礼します」
「また放課後!」
 未だ名残惜しそうにする連中に、俺は半ばヤケクソ気味に手を振った。
 六人の姿が教室から消え、ドアが閉まったのを確認すると、机の上に小さく積もった六種類ののどあめを見下ろし、俺は深いため息を吐く。
 気持ちは、嬉しいさ。当然だ。
 だからけして悪い気はしない。ため息を吐きながらも心底困ってはいないと、自覚している……甘いのかもな、俺も。
「橘、お前って後輩に慕われてるっつうか……愛されてるよな」
 感心しているのか、馬鹿にしているのか、判断が微妙な声がかかる。
「ありがたい事にどうやら、そのようだ」と答えようとしたが、声は出ない。俺は笑って答えるしかなかった。
 きっとこのあめを全て舐め終わる頃には、俺の喉も元通りになるだろう。
 あいつらに色々説教するのは、それまでお預けにしておいてやるか。


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