パステルエナメル

「ん?」
 部室の隅に転がっていた「それ」に気付いたのは、僕と越前がほぼ同時だったみたいだ。
 ただし行動に出るのは越前の方がずっと早かった。ひょい、と拾い上げ、白く光るライトにかざす。
「何スかね、これ」
 越前は振り返り、最初に目の合った僕に訊ねてくる。まあ、僕以外に室内に居たのが英二と桃だけだった、と言うのが、僕に聞いた一番の理由だろうけれど。自分で言うのもなんだけど、そのふたりに比べれば芸術的な教養がありそうに見えるからね。
「これはね、アクリルガッシュって絵の具だよ。今三年は美術の授業でこれを使って絵を描いているんだ」
「って事は、三年の誰かの落としものって事ッスね」
「そうなるだろうね。僕が落としたものではないけど」
 僕は越前の手から、小さなチューブを受け取った。
 色の名前が描いてある。パステルエナメル――教材として買わされた最初の十二色の中には、なかった色だ。この色の持ち主は、美術の課題をクリアするために必要だと思って、わざわざ買ったんだろう。
 僕はどんな色だか興味を持って、新品なのに悪いと思いつつもフタをあけてみた(外側に塗られている色って、本物とけっこう違ったりするじゃない?)。
 独特の匂いを微かに鼻に届けながら、見えた色は。
 透明感のある灰色のような、銀色のような。
 ああ、僕はかなり好きだな、こんな感じの薄い、なめらかな色。とても綺麗だ。
「ヘンな色ですね」
 どうやら越前とは色の趣味が合わないみたいだ。しかたないよね、彼は帰国子女で、原色系が好きな人だから。
「でも、興味沸かない?」
「何にッスか?」
「この色を作り出すのは難しいかもしれないけれど、似たような色なら簡単に作れるだろう? 白に、少しの黒を混ぜれば薄いグレーができ上がる。それなのにわざわざこの色を買ったんだよ、落とし主は」
「はあ」
「その人はこの色にこだわって、一体どんな絵を描くんだろうね」
 僕はそっと、目を伏せる。
 瞼の裏に広がる、一面のパステルエナメル。
 落とし主はこの色で、どんな絵を描くのだろう、僕だったらどんな絵を描くのだろう――そんな風に、思いを馳せて。
「あ、不二、それ!」
 桃とプロレスごっこだかすもうごっこだかをしていた英二が突然、声を張り上げる。外だったらともかく、ここは室内なんだから、呼びかけるだけならもっと声を落としてもいいのに。耳が痛いよ。
「英二はこの絵の具の持ち主、知っているの?」
「うん、さっき大石がなくしたって困ってたぜ!」
 ……。
 …………。
「へえ……大石の、なんだ。この絵の具」
「ああ、すっげー探してたから、渡してやったら喜ぶよ、きっと!」
「そうだね」
 僕は笑顔で英二に答え。
 ふと気が付くと、僕は絵の具を握り締めていた。
「不二先輩」
「なんだい、越前」
 見下ろすと、自信ありげな笑顔で立つ越前。
「その絵の具、大石部長代理には返したくないって思ったでしょう?」
「……まさか」
 ポーカーフェイスで、笑顔で、越前にそう言い返してみたものの、胸の中に沸き上がった空しさを指摘された事に間違いはなくて。
 ああ、そうか、そうなんだ。
 大石のなんだ……この絵の具。

 その後僕は、部室に入って来た大石に絵の具を返しながら、心の底から祈った。
 この色が、少しでも綺麗な絵に、綺麗な色のまま、使われますように、と。


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