合わせ鏡

「深司、俺さあ、今日クラスのヤツに聞いたんだけどなっ」
 隣を走る神尾が、何やら楽しそうに俺に話かけてくる。
 このテニス部に入部してから、唯一やらせてもらってる練習らしい練習がこのランニングだって事は、神尾だって判っているはずなのに。黙って走れないものかなぁ……やんなるなあ、まったく。
 俺は神尾の方には振り返らず、少しだけ顔を上げて前を見る。
 全力で走っている俺や、喋りながらとは言え足の早さは半端じゃない神尾よりも前を走る背中――つい数日前まで、そんなものは見られなかったのに。
 はじめて見た時、あの背中は妙に頼もしく思えた。今の日常を狂わせてくれるんじゃないかって期待もあったけれど、ここ数日、現状はまったく変わっていない。
 期待はずれか。そうだよなあ。
「この学校に伝わる七不思議のひとつでさ、体育館の入口のトコに、トイレあんだろ? あの男子トイレの鏡で、夕方四時四十四分、合わせ鏡をすると、その鏡に映った奴は、夢の世界に引き込まれるんだってさ!」
「はあ……? 何それ。大体七不思議って言うけど、のこり六つはなんなんだよ」
「そ……それは今、調査中に決まってんだろ!」
 俺の質問は、神尾にとっては辛い質問だったみたいだ。それきり黙って走るようになった。
 リズムを上げて、少しずつ俺から離れて。
 今にも橘さんとか言う、転入してきたばかりの二年生に、追い着こうとしている。
 ふたつ並んだ背中を見ながら、俺はぼんやりと、今神尾から聞いたばかりの話を思い浮かべた。
 七不思議って言うのは、大体どこの学校でも怪談話だと思うけれど……夢の世界に連れて行かれるのは、怪談なんだろうかと、疑問を持った。
 今が、辛い人間にとって。
 現実が、歪んでいる人間にとって。
 夢の世界に連れて行ってもらえるなら、これほどありがたい事はないと、思う。

「あ」
「どうした深司」
「タオルが無い」
 部室の横(一年は部室の中のロッカーすら、使わせてもらえないらしい。頭の悪いルールだよな……)に置いておいた鞄を漁っても、タオルが入っていない。
 どこにやったっけ……? まさか誰か盗んだんじゃ無いだろうな……盗むほどのものじゃないと思うけど……。
 ああそうだ、六時間目の体育で使ったんだっけ。じゃあ、体育館に置き忘れかな。めんどうだなあ。
「多分体育館だ。行ってくる」
「おい深司、サボるとまたドヤされるぞ!」
「いいよ別に」
 親切心から出たんだろう桜井の忠告も無視して、俺は空を見上げながら体育館へ向かう。あとの事なんて考えなければ、先輩たちから開放された事は、気持ちいい。
 そうして体育館に近付くと、賑やかな掛け声や、ちょっとした笑い声が聞こえてきた。
 バレー部、バスケ部、バドミントン部。皆楽しそうに部活やっちゃって。
 まったく、ほんと、やんなるよなあ。
 なんで俺、テニスなんか選んだんだろう。
 なんで俺、テニスなんかが好きなんだろう……馬鹿だよなあ。
「あ、伊武くん?」
 体育館の入口で、ぼーっとひとり立っていると、バレー部らしい女子がひとり、俺に声をかけてくる。
 えーっと、誰だっけ、この人。顔に見覚えがあるなあ。同じクラスかなあ。
「このタオル、伊武くんのじゃない? ネット張ってたら落ちてるの見つけて、授業中に伊武くんが使ってるの見かけたから、あーって思って、ひろっといたよ」
「ああ、ありがとう」
 差し出されたタオルは、確かに俺のだったから、俺はタオルを受け取って、すぐに背中を向けた。
 楽しそうな部活を見ているのは、なんかむかつく。
 今すぐに逃げ出したい衝動にかられる――あー、逃げ出したいなんて言っちゃってるよ。駄目じゃん俺。その時点で負けてるよ。あーあ。
 ため息つきながら、一歩、二歩、三歩。テニスコートに戻ろうと進む、俺の目に映ったものは。
 体育館の入り口にある、男子トイレ。
 なんとなく腕時計に目を向けると、四時四十二分。
 ジャージのポケットをまさぐると……あ、入れておいたんだった、手鏡。
「……」
 神尾は本当に馬鹿なんだろうな。あんな嘘に決まってる話、嬉しそうに話すなんて。
 と、思いつつも。
 俺の足はトイレの中に向かっていて、なんだ俺神尾の事言えないなあ……と思った。
 ほとんど使われない、薄汚れたトイレの中でひとり、備え付けの鏡に背を向けた俺は、右手に手鏡を持って、左手の時計を確認する。
 四十四分まで、あと十秒。
 俺は手鏡を掲げて、合わせ鏡になるように、上手くずらす。一瞬にして俺が何十にも増えて、少し気持ち悪かった。
 残り三秒……二秒……一秒。
「伊武?」
 突然声をかけられて、驚いた俺は手鏡を取り落とす。
 カシャン、と無機質な音が響いたけれど、割れてはいないみたいだ。
「こんな所で何をしているんだ?」
「橘さん……」
 神尾に聞いた七不思議の真偽を確かめていた――と言うより、本当ならいいと願いながら試していた――なんて言えるはずも無いから、俺は口を噤んだ。
「言い辛い事ならまあいい。それより、話がある。皆には向こうで話したから、あとはお前だけだ」
「皆?」
「ああ。桜井、石田、内村、森、神尾の五人にな」
 それは、俺の仲間たちの名前。
 テニスがしたくてしょうがないのに、それができない、哀れな同志たち。
「話って、一体……」
「俺たちが練習するための新しいテニスコートを作ろうと思う」
 俺の唇は突然震えだし、上手く声が出せなくなった。
「……え?」
 震えているのは、唇だけではなくて。指先も、肩も、足も、体中すべてが。
 このひとは、今、なんて?
「はじめは今のテニス部を改革するつもりだったんだが、腐り方が半端ではないからな。そんな事をしている間に、お前たちの才能や情熱までも腐ってしまってはもったいないだろ?」
「でも……どこに」
「昼休みに学校中を歩き回ってみたんだが、校舎裏にコートが入りそうな空きスペースが見つかった。担任を通して校長にコート作成の許可を申請したら、あっさり通ったぞ。部費は増やせないと注釈がついたが、俺たちの手で作ればタダだ。問題はない」
 俺は。
 この人は何かをしてくれるのではないかと、勝手に期待をして。
 けれどこの数日、何も変わりはしなかったから。
 だから、俺は勝手に、諦めて、いたのに。
 俺が諦めていた間、この人は。
「テニスコートができたからと言って、良い事だけではないだろう。残りのテニス部の連中に因縁をつけられる可能性はきわめて高い。だから参加するのも断わるのも、お前の自由だ。よく考えて決めろ」
「考える必要なんて、ありません」
 たぶん。きっと。
 俺以外の五人だって、もうすでに、橘さんに答えたはずだ。一瞬たりとも、迷わないで。
「もし俺だけ誘われなかったとしても、勝手に参加します」
 橘さんは一瞬驚いて、すぐに柔らかい、それでいて頼もしい笑顔を見せる。
「他の五人も、まったく同じ事を言っていたよ」
 そう言って、大きな手が俺の頭に触れた瞬間。
 その温かさにうっかり、泣きそうになった。
 そして、俺は絶対にそんな事はしないけれど、神尾や森あたりは、今ごろ泣いているんじゃないかなと、ぼんやり思った。

「神尾」
 橘さんとふたり、テニスコートに戻って、俺ははじめに神尾に呼びかける。
 神尾は目が少し潤んでいて、顔が、特に鼻のあたりが真っ赤だった。本当に泣いてたのかな……予想通り、単純な奴だよなあ。
「ああ、深司! 話もう、聞いたか!?」
「七不思議……」
「七不思議の話なんてどうでもいいんだよ! テニスコートの話だろ!」
「本当、かもしれない」
「は? 何言ってんの、お前」
 俺は神尾の横をすり抜けて、ポケットにしまった手鏡を取り出し、覗いてみる。
 落としたショックでヒビの入った鏡は、役目を終えたと俺に話かけてくるみたいだ。
「まるで夢、みたいだ」
 そう、俺はひとり呟く。
 だって今ここは、俺が、俺たちが、夢を見ていた世界そのものだから。


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