カタカタカタ、心地よく耳に響くリズミカルな音が、静かな部室中を響き渡ってる。
 俺たち三年とか、二年とかにはもう聞き慣れた音で、見慣れた光景なんだけど、まだ仮入部の一年はビックリした顔で、音の発生源をぼーっと見てた。うん、俺らも半年くらい前は、そうだったかも。
 主に一年の視線が集中するところには、珍しく難しい顔をしている大石が居る。シャープペン持った右手で頬杖ついて、ちょっと眉間に皺寄せながら真剣な顔で机の上の書類を睨みつけて、左手は思わず見惚れちゃうくらいの勢いで計算機を叩き続けていた。大石のお父さんの事務所のお古をもらったって言う、一般のものよりずっと高機能なやつを。
「すごいですね、大石副部長」
「うん、あれは大石のじゅっこある得意技のひとつだからなっ」
「十個もあるんスか!」
 英二、嘘教えちゃいけないよ。
 でもあ、色んなジャンルの得意技を合わせれば、本当に十個ありそうだなあ、大石なら。ムーンボレーだろ、クロールとか……あとの七つは、知らないけど。英二の宥め役とか、そう言うのも含めていいのかな?
「それにしても、相変わらずでたらめなスピードだね」
 優雅な笑顔を浮かべながら、不二は大石の計算機さばきを誉めた。
 うん、そうだね。あんなに計算機が早く叩ける人って、そう居ないよね。うちも商売やっているから、母さんが帳簿つける時に計算機使ってるけど、大石の半分のスピードもないよ。
「慣れとは言っても、すごいよね。それに、大変だろうなあ」
 去年副部長に就任した大石は、部の雑用のほとんどをこなしていて、部費の帳簿付けも、もちろん大石の仕事だ。まあ部費に係る仕事は、部費の振り分けの決定権がある生徒会長の手塚が手出しをしてはいけない事になっているらしいから、大石の負担が重くなってしまうのも仕方がないんだけど。
 もともと几帳面な性格だし、お父さんが税理士なのも関係するのか、大石が会計を担当するようになってから帳簿がしっかりしていて助かるとは、竜崎先生の弁。
「あー……」
 計算機を叩く音が止まると同じに、大石の落胆の声。
「二百三十六円合わない……」
 大石はシャープペンを置いて、両手で頭を抱えた。
 三秒後くらいに復活して、もう一度計算機を叩きはじめたんだけど、音が止まったらまた肩を落としてしまった。
「なんだ……? 二百三十六円って」
「どうかしたのか?」
「ああ、乾。帳簿が合わないんだよ、ニ百三十六円。先月末の時点ではしっかり合っていたんだが……」
「どれどれ」
 乾は帳簿をひょいと持ち上げて、机に広がっているレシートとか、領収書とかと照らし合わせる。でも、何の問題もないみたいで、フウ、ってため息を吐きながら肩を竦めた。
「お金、足りないの?」
「いや、余ってるんだが……」
 眉間の皺を更に増やして、帳簿を睨む大石。それ以上増やしちゃったら、手塚になっちゃうよ、大石。
「じゃあもらっちゃえばいいじゃん!」
「コラ、そんなわけにいくか」
 大石に本気で怒られて、英二は少し落ち込み気味で、ベンチに縮こまって座った。
 でも、俺も英二の意見に少し賛成かもしれない。大石、普段きちんとやってるんだし、大変だし、ここで二百三十六円くらいガメちゃっても、誰も怒らないと思う。
「あれ? 二百三十六円?」
 ふと、桃が天井を見上げながら呟いた。
「なあマサやん、こないだ買い出しに言った時、店のおっちゃんにまけてもらわなかったっけか?」
「あー、ああ、そうだそうだ! 端数切捨てで一万円でいいぞって言ってくれた」
「え? ど、どの店だ?」
 桃と池田が机に広がるレシート類を見回して。
「えーっと、ここですここ……あー、領収書の金額が間違ってるじゃないッスか!」
「ホントだ、一万二百三十六円になってる!」
 なんだ、それ。
 と、家が商売をしている身としては、少々腹を立てたくなったりもする。
 でも、割り引いてもらったんだから、あんまり文句をつけるのも悪いかな? なんて事も、思っちゃったりする。
「あー、よかった。これで前年度はバッチリ合ったよ」
「お疲れー」
「お疲れさま、大石」
 皆からのねぎらいの言葉を受けて、大石はちょっと嬉しそうに笑った。大変な仕事って、大変だけど、それだけに達成感も大きいよね。
 うん、なんかちょっと、俺も嬉しいな。
「なんか大変そうッスね。大石副部長が引退したら、誰がこの仕事するんスか? 桃先輩とか逆立ちしたって無理そう」
 いつの間にかひょっこりと、大石の隣に腰を降ろしていた越前は、大石愛用の計算機をカタカタいじくりながら大石に尋ねた。
「なんだと、言ったな越前!」
 って、桃が怒ってるのに、さっぱりと無視してる。すごいなあ、あの態度の大きさ。俺も少しは見習った方がいいのかな……。
「誰でもいいと思うけど、なんならお前がやるか? 越前。その電卓、残していってやるから」
「いや、遠慮するッス。とても使いこなせそうにないッスから。何のためについているか判らないボタンが多すぎ」
 あー、それ判るなあ。俺もたまに計算機使う時、コレなんだろうとか思う。未だに何の機能だか判ってないやつ、あるんだよね。
 大石がたまに使っている所見るけど、いっつも忙しそうだから聞いちゃ悪いかなって思って、見守ってるだけなんだ。
「コレは?」
 越前が指し示したのは、数字のボタンの上にある、M+と書かれたものだった。
「ええと、コレを押すとな、別メモリーに足されていくんだよ。最後にMRを押すと、合計が出てくるわけ」
「……何の役に立つんスか?」
「そうだなあ、式に掛け算が登場した時かな。たとえば、1×5+2×3、とかって時に、1×5でM+を押して……」
「もういいッス」
 自分で聞いといて説明の途中で勝手に打ちきるなんて、さすがだなあ、越前。
 って言うか俺、その説明聞きたかったな……俺が疑問に思っていたのも、ちょうどその機能だったんだよね。母さんも知らないとか言ってたし、気になって調べようかと思ったら説明書なくしたって言われたし。
 あとで聞いてみよう。
「コレは?」
「ん? ルートか? ええと、越前はルートの意味自体判っているか? 授業ではまだ習ってないと思うけど」
「知りません」
 いくら知らなくて当然の事とは言え、知らない事を、そんな堂々と言えるなんて、さすがだなぁ、越前。
「Xの二乗イコールAの時、ルートAイコールXなんだよ。つまり、ルート9は3……判るか?」
「んー……なんとなく」
「だから、数字を入れて、ルートのボタンを押すと、その答えが返って来るんだよ」
「ふうん」
 越前は(さっきと違って)何やら興味を持ったようで、適当な数字を押してはルートボタン、を繰り返していた。
 なんか、与えられたおもちゃにじゃれて遊んでいる子供みたいだ。
 なんて言ったら、怒られそうだけど。
「楽しいか?」
「それなりに」
 大石の問いにそっけなく答えて、越前は再びルートで遊び始める。
 ちょっとヒネくれてる越前がそんな風に言うんだから、本当はかなり楽しんでるんだろうなあ。
 俺と同じように、ほのぼのとした気分になった奴は多いみたいで、皆ちょっと幸せそうな笑顔で越前と計算機を見守った。
「……で?」
「ん?」
「何の役に立つんスか、コレ。こんな数字知りたがる人、ほとんど居ないと思うんスけど。存在価値が無いッスよね」
 ぴきぃっ。
 部室の中のほのぼのした空気が、一瞬にして凍りついた。
 うわっ、うわっ。越前、それ言っちゃ駄目だよ! そんな、世の中の大半の人が思っているけど、数学者に喧嘩を売るから言えないような事っ。
 別に自分に聞かれたわけじゃないんだから、聞き流せばいいんだけど、妙にオタオタしてしまう俺。
 英二は「そうだそうだー!」って越前の意見に納得しちゃってるし。不二はちょっと苦笑、って感じ。乾はデータノート広げてる。
 肝心の、聞かれた大石はどうしているかと言うと。
 少しだけびっくりして、それで、こっちがびっくりするくらい柔らかく笑って。
「でも、越前が楽しむ役には立てただろう?」
 越前はしばらく黙ってたけど、
「……ッスね」
 ニヤリ、って笑いながら、席を立った。
 そのまま立ち去る越前に、「気を付けて帰れよ」なんて言いながら手を振る大石に、不二はとことこと歩み寄る。
「大石、将来の夢なんだっけ?」
「え? まだはっきりとは決めていないけど、医者とか、かなあ?」
「そうなんだ。うん、それも悪くないと思うけど、僕としては保育士がお勧めかな」
 大石は一瞬、口をあんぐりと開けて、
「はあ? 突然何言ってるんだ? 不二」
 それから困ったみたいで、助けを求めるように俺たちを見たんだけど。
 その場にいた皆は全員、不二の意見に賛同しちゃったみたいで、さりげなく大石から目を反らして逃げた。
「まあ、いいか」
 って大石が言って。
 今日も青学テニス部は平和だなあ、と俺は思う。
 そして、その平和を守っているのは、大石なんじゃないかなあ、とも思った。


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