ニューロン

 部活後の部室で、神尾と内村がもめていた。
 相変わらず馬鹿だなあと思う。そんなくだらない事でいちいちもめてどうするんだよ、鬱陶しい。そんな事している暇があったらさっさと帰ってくれないかなあ……うるさいんだよね。
「俺は、絶対、泣かないからな!」
 それがさっきから神尾が繰り返している主張。頭が悪くてボキャブラリーが貧困だから、同じ台詞を繰り返す事しかできないらしい。
「いーや、ぜってー泣くよ、お前! 誰よりも先、一番最初に!」
「そんなことねーよ!」
「いや、悪い神尾、俺も内村と同意見」
「桜井! てめー、裏切りやがったな!」
 火の粉が、桜井に飛んだ。
 桜井に飛んだら、遅かれ早かれ石田と森にも飛ぶんだろうな。あーやだやだ。俺のところにだけは来ないでほしいね、本気で勘弁。
「そこまで言うなら判ったよ、賭けようぜ!」
 どれくらい、もめた後だったか。神尾がそんな宣言をしたのは。
「橘さんの卒業式の日、誰が一番はじめに泣くか、賭けようぜ! はずれた奴全員で、あたった奴全員に、その日の昼メシおごるのでどうだ!?」
 ……くだらない。
 そう、心底、強く、思ったものだから。
 口に出して言うのも面倒くさい。どうせまた神尾が絡んでくるんだろうし。
 どうして神尾はこんなに馬鹿なんだろう……ウザいよね、本当に。
「よっし、じゃあ俺はアキラだ!」
 内村も乗るなよ……。
「俺は内村に賭ける!」
 内村に対抗するように、神尾はそう断言したけれど。
 あーあ、なにそれ。神尾、負け決定じゃん。本当に頭悪いよね。負け確実の賭けにでるなんて、ありえない。
「俺は意外に石田とかあるんじゃないかなと思うけど」
 ……森まで乗ったのか。あーあ。
「そうかあ?」
「うん、だって石田優しいし。なんだかんだで」
「それを言うなら森の方じゃないか? じゃあ俺森に賭けようっと」
 お互いに賭けあってどうするのさ。なんかメリットあるの?
 まあ、そもそもこんなくだらない賭けに乗ってる時点で、デメリットだらけか。
「俺も内村と同じで、神尾!」
「なんだよホント、ムカツクよ。俺が今んとこ一番人気じゃん――って、深司! お前まだ賭けてないぞ! 誰にするんだよ!」
「いちいち巻き込むなよなあそんな事。五人だけでやってろよ。ムカツクのはこっちだって言うの」
「ほら、早く答えろよ!」
 答えて欲しいならその前に人の発言を聞けよな……聞こえにくかったとしてもさあ……。
「神尾以外にありえないだろ」
 心底めんどくさい、と態度で示して、そう返してはみたけれど。
「深司まで! ちくしょームカツク、もう俺、絶対泣かねえ!」
 神尾が俺の真意に気付くわけもないか。そうだよな。神尾なんかに期待した俺も馬鹿だって事だよな。

 大体泣くってなんだよ。
 中二にもなった男が、なんで他人の卒業で泣くんだよ。自分の卒業式でだって泣かないだろ普通。別に永遠に会えなくなるわけじゃないんだしさあ。
 そりゃあ橘さんが居なくなるのは寂しい事だと俺も思うよ。あの人は俺にとって先輩としてもテニスプレイヤーとしても尊敬に値する、稀有な存在で、まだまだ教わりたい事は沢山あるから、悲しいとか寂しいとか思うのを、今回ばかりは俺も止めないでおいてあげるよ。
 けど泣くってのはどうかなあ。大の男(と言うほど俺たちは大人じゃないかもしれないけど)が、たかが卒業で。みっともない。
 そんな事をぼんやりと考えているうちに、卒業式は終わってしまった。途中立ったり座ったり、校歌やら国歌やら在校生から贈る歌やら歌ったはずだけれど、ぜんぜん覚えてない。
 ただ、耳に残るのは、名前を呼ばれて立ち上がる時の、橘さんの「はい」と言う声。
 目に焼き付いたのは、壇上に上って卒業証書を校長から受け取る橘さんのきれいな姿勢。
 ああ、本当に。
 あの人は不動峰中学から立ち去ってしまうのだと、思った。

 神尾も内村も、今にも泣きそうな顔をしていたけれど、まだなんとかこらえていた。
 ほんとよかったよ。卒業式中に泣かれたら、同じテニス部員だってだけで恥ずかしいからね。かと言って俺テニス部辞めたくないし。部室まで我慢してくれて本当によかったよ。
 最後に橘さんに渡すんだと、皆で金を出し合って買った小さな花束(恥ずかしいから杏ちゃんに買ってきてもらった)とプレゼントの置いてある机を中心にして、俺たち六人は円を描いて立ち尽くす。
 それぞれが色んな想いをこめてそのふたつに視線を注ぎながら、橘さんが部室に来てくれる時を、じっと待った。
「すまん、待たせたな」
 それほど待たずに、部室のドアが開いて、橘さんが姿を現す。
 卒業証書をしまうための筒が、鞄からはみ出していた。
 胸に止めてある安っぽい造花のバッヂには、「祝・卒業」と書いてあった。
 鞄を持つ手と反対の手に持ってるものは、卒業生に贈られた、一輪の花と紅白まんじゅうの箱。
 ああ。
 橘さんは本当に、この中学から居なくなってしまうのだと。
 全国大会が終わった時に、部活を引退してしまったけれど、それでもときどき部室を覗きに来てくれた橘さん。そのときどきすら、完全になくなってしまのだと。
「し……ん、じ?」
 橘さんが目を丸くして、俺を見ている。
 そんな橘さんに続いて、神尾と内村が、桜井が、石田が、森が、俺を振り返る。
 なんだよ皆、そんなへんな顔してさあ。
 橘さんを見送る時に、なんで俺を見るんだよ。おかしくない?
「……あれ?」
 俺は、その時ようやく、どうして俺に視線が集まっているのかを理解した。
 生暖かい液体がゆっくりと頬をつたって、顎に到達する感触に、気付いたから。
 なんで。
 なんで、こうなるんだろう?
 とりあえず俺は慌てて涙を拭って、一番間抜けな顔で俺を見ている神尾を睨みつけた。
「何見てるんだよ」
「何って……めずらしいモンを」
 間抜けな顔で神尾は、そんな事を言う。ムカツク。
「俺は見世物じゃないよ」
「下手な見世物よりよっぽど貴重だったぞ、今。お前が橘さんとの別れが悲しくて泣くなんて、ありえないと思ってた」
 そう。
 俺も、ありえないと思っていた。
 橘さんが居なくなる事は悲しい事で、寂しい事で――けれど、この俺が泣くはずもなくて。
 ああ、そうだ、きっと。
「違う、これは……ニューロンのいたずらだ」
 この状態が正常だとは、考えられない。ならばこれは、何かの間違いなんだ。
「俺は悲しいわけじゃなくて、きっと神経が出した指示に異常が……あるいは伝達が間違って……」
「ワケ判らない事は、いいっつの!」
 神尾は俺の言葉を遮ってどなると、それまで必死になってこらえてたんだろうに、ボロボロ涙をこぼしはじめた。内村に負けるのにそれでいいのかよ、と一瞬思ったけれど、俺のせいで賭けが不成立になったんだなって事に気付いて、何も言わずにおいた。
 神尾につられたのか、内村も泣きはじめる。森は顔を伏せながら小さく嗚咽を漏らして、桜井は耐えるような顔して唇噛み、石田は目頭をおさえる。
 なんだよ皆……そんなに我慢していたなら俺より先に泣いてくれれば良かったのに。ムカつくなあ。
「いいじゃねーか! 橘さんが、居なくなるのは、悲しいし、寂しいんだよ! だから、その事で俺らが泣いたって、恥ずかしくも、なんとも、ねーの! 間違ってるなんて、ありえない!」
 涙声で、途切れ途切れにそんな事を言う神尾に、「滑稽だよ、恥ずかしい奴」なんて言って、笑い飛ばしてやりたかったけれど。
 けれど、そんな気持ちになれなかったのは。
「おいおいお前ら、卒業する俺が泣いてないのに、お前らが泣くってどう言う事だ」
『たちばなさん……』
「心配するな。大丈夫だ、お前たちなら。俺が居なくなったって充分やっていけるさ」
 困ったように苦笑しながら、俺たちを慰める橘さんには申し訳ないけれど。
 俺たちが泣いているのは、この先が不安だとか、そんな理由じゃないんですよ、橘さん。
 ただ、本当に本当に、貴方が居なくなる事が、悲しいだけで。
 明日からはきっと大丈夫です。むしろこの気持ちを糧に、俺たちは強くなる。
 だから今日だけはこのまま――本能のままに、泣かせてください。


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