柔らかい殻

 地区大会の決勝の日。
 橘さんは俺に振り返って、突然訊ねてきた。
「深司、悔しいか?」
「? ……はい、まあ」
 何が、と橘さんは言わなかったけれど、越前くんとの試合結果の事を示しているのは明らかで、俺は正直に答えて頷く。
 悔しい。うん、多分そうなんだろうな……もっと強くなって、越前くんをつぶしたいって思うからね。負かして、あの生意気な表情を崩したら楽しそうだ。
「そうか、それならよかった」
 橘さんは俺の返事に満足している風で、静かな微笑みを浮かべて頷いた。
「……なんでですか?」
 俺は、負けた。
 俺が勝っていれば、橘さんは青学の部長の手塚さんって人と試合ができて、そうすればうちは勝てた。
 別に都大会に進む事は決まっているから、この先でリベンジすればいいのかもしれないけど……。
「お前、うちの中では俺以外に負けた事がないだろう?」
「はい」
 ときどき神尾にヒヤッとさせられる事はあるけれど、同じ二年の中では、俺は負け無しだ。
「そして俺には負けて当然だと思っているだろう」
「はい」
 あたりまえですよ。俺が橘さんに勝てるわけがないじゃないですか。たまにワンポイントとって喜んでるレベルなんですから。
「だからだ」
「はあ……」
 なんかいまいち良く判らないけど、橘さんがいいって言ってるなら、いい事にしておこうかな……。
 と、適当な事を考えている俺の考えを読み取ったのか、橘さんはため息まじりに笑って、俺の頭に手を置いた。
「悔しいって気持ちは向上心に繋がる。お前は今以上に強くなる――無駄な敗北なんて、俺たちには無い」
 前向きで強い橘さんらしい言葉だと思った。俺には発想できないものの考え方だ。
 つまり俺の価値観とは全く違った所にある意見なのに、なぜだろう、正しい意見だと素直に受け入れられる。
 それがきっと、橘さんの力なんだろうな。

 関東大会の準決勝の帰り道。
 今でもまだ半分くらい、あの試合は夢だったんじゃないかなあと思いつつ、悔しそうに握られた橘さんの拳が、現実なんだと教えてくれる。
 無駄な敗北なんて無いと橘さんは言ったけれど。
 橘さんに敗北が必要だったとは、俺には思えないけどなあ……悔やみなんて無くても、橘さんは充分以上に向上心に溢れている人じゃないかなあ……?
「どうした。不満げな顔してるな、深司」
 なんで判るんだろう、この人は。
 まあ俺はなんだかんだで表情に出やすいってよく神尾とか桜井とかに言われるけどね。
「さっき誓ったばかりだろう? 明日から今日まで以上に頑張る、ってな」
「いえその事は別にいいんですけど、やっぱり納得がいかないと言うか」
「納得がいかない?」
 あー……。
 なんかこれあんまいい事じゃないよなあ。そりゃ橘さんは強い人だし、立ち直りも早そうで、俺がどんな失礼な事言っても不機嫌になったりしない大人な人だけど、それでも自分の負け試合の事蒸し返されるのって気分良くないよね。
 他の連中ならどうでもいいけど、橘さんだしなあ……。
 どうしよう。
 そんな風に珍しく悩んで見た俺は、すっかり黙りこんでしまい、そんな俺の態度がおかしいのか、橘さんは微笑む。
「深司、個人個人の中に、世界と言うものがあるだろう? 俺にとってのテニスの世界、お前にとってのテニスの世界、それは全く違ったもののはずだ」
「……はあ」
 橘さんってときどき、突拍子もない話をはじめるよなあ。脈絡がなさそうな。
 でもそう言う時は大抵、黙って聞いていれば、そのうち脈絡があるって判るから、黙って聞いていよう。
「今までお前の世界の果てには、俺が居た。俺と言う壁があった」
「はい」
「つまり昨日までのお前は、どれほど練習を積んで強くなったとしても、俺に追いついて終わりだったって訳だ」
 なんか。
 なんとなく言いたい事が判ってきた……ような気がする。
 でもそれは、あんまり認めたくないなあ。
「けれど今日、お前は見ただろう。俺はけして敗れない壁じゃない。切原にとっては柔らかい――そうだな、卵の殻のように簡単に崩せた。お前は世界がもっと広い事を知ったはずだ」
 ああ、やっぱり、そう言うんだ。
「だからお前はもっと強くなれる。俺を追い越す事もできる」
「いやですよ」
 俺にしては結構、はっきり答えたかな。
 だから橘さんは驚いて、少し目を見開いて俺を見下ろした。
「深司、俺はあくまで発想の転換についてだな、俺だって抜かされるつもりはない」
「なんだろうといやですよ。橘さんは俺の……俺たちにとって永遠に追い付かない最終目標でないといけないんです。いいんじゃないですか。橘さんが本当に、誰の目から見ても世界の果てになってくれれば。頑張って練習すれば、俺はいつか二番目になれるじゃないですか。俺は別にそれでいいかなって思ってますよ」
 あー、なんか、俺思った事ちゃんと言えてるのかな。
 まあ別にいいや。俺なんかが言わなくても、橘さんって人はちゃんと判ってる人だからね……。慣れない事するもんじゃないよね。
「言ってくれるな、深司」
 橘さんは少し驚いた感じで、それから、柔らかく、でも力強さを感じさせる笑みを浮かべる。
 ぽん、と、橘さんの大きな手に後頭部を押された……あの、よろけるんですけど。
「元よりそのつもりだったが、人からそう言われてしまうと、意地でも一番に行かなければならなくなるな」
「はい、行ってください」
「ずいぶん気軽に言ってくれるな」
 ははは、と、橘さんの軽い笑い声が響く。
 気軽……? まあ、気軽かな。だって信じているって言うか、当然の事ですからね。
「頑張るさ。どこまでもな」
 微かに囁くような声。
 けれど何よりも力強い声に感じる。
 だから俺たちはこれからも、安心して着いて行けるんだ――この人に。


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