手塚の、腹の底に響くような低音が、テニスコート中に響き渡った。 「十分間休憩!」 見た目の割にけっこう鍛えているつもりの僕だったけれど、地区大会を三日後に控えた今日の練習はいっそう辛く(乾はレギュラー落ちした鬱憤を僕らではらしていると思う。絶対に)、休憩を告げる手塚が神様に見えたほどだ。 「水分補給は大切だから怠らないように」 乾が投げるスポーツドリンクを受け取り、僕はよろよろとフェンス際まで歩き、そこに座りこんだ。隣には先客のタカさんが座っている。 「疲れたね」 「そうだね。もうすぐ大会だからしょうがないんだろうけどさ。特に俺なんてギリギリレギュラーだし」 そう言ってタカさんは喉をゴクゴクと鳴らし、ものすごい勢いでドリンクを飲んでいった。 僕は正直、飲むと言う行為すら面倒だったのだけど、乾の言う事に間違いはなく、僕自身喉が乾いていたから、ドリンクに口を付ける。だるいと思っていたのが嘘のように、最初の一口が喉を通ると、僕もタカさんと同じようにひたすら飲み続けた。 「ところでさあ、不二」 「なんだいタカさん」 「なんか心配事でもあるの?」 汗を拭くためにタオルにかけていた僕の指が、ピクリ、と硬直する。 「……どうして?」 「いや、無いならいいんだけどさ。今日の不二、ちょっとヘンだなあと思って。技のキレが悪いって言うか、イージーミスもあったよね」 そりゃ僕だってイージーミスくらいするよ、と言い返せばすむ事なのかもしれないけれど、僕はそれをしなかった。 タカさんの言う通り。今日の僕は多分、少しヘンだ。どうしてヘンなのか、理由に心当たりもある事だし。 まさか気付かれるとは思わなかったけどね。 「別にね、大した事じゃ、ないんだよ」 「そう?」 「うん。昨日裕太に電話をかけたら、声も聞けずに速攻切られた。それだけさ」 僕が正面を向いたまま、笑いながらそう言うと。 ぽん、と大きくて温かい手が、僕の頭の上に乗った。 「それは大した事だよ、不二」 「そうかな。いつもの事なのに?」 「そうだよ。絶対そう! だから、そんな風に笑わなくていいんだってば!」 タカさんが心配そうな声でそう言って。 どんな顔をしてそんな事言っているんだろうと気になったけど、今タカさんの顔を見たら、無様に泣いてしまうんじゃないかと恐れて、できなかった。 僕は笑っている方が楽なんだよ、タカさん。 「どうしてだろう」 僕は自分の顔を隠すように、タオルを頭からかぶった。 「あんなに裕太が僕の事を嫌うなら、いっそ僕も裕太の事を嫌えたら、楽なんだろうね」 今僕は泣いてはいないけど、ひょっとすると泣くよりももっと無様な姿を見せているかもしれない。それは僕にとって、苦痛以外の何者でも無いはずなのに。 きっと、これがタカさんの力なんだろうなあ。 ありがたいけれど、不思議と落ち付くけれど……なんか悔しいや。 「裕太君は、不二の事嫌ってなんかいないよ」 タカさんは穏やかな声で言った。 多分、人を和ませるおっとりとした笑顔を浮かべながら、だろう。 「人を本当に嫌うのってさ、けっこう難しいよ。裕太君は不二に反発したいと思ってるだろうし、不二を倒したいと思っているだろうけど、嫌いなんかじゃないよ」 「それは嫌いって言わないのかな?」 「うーん」 タカさんは少しだけ考え込んだ。 「じゃあ、不二は手塚の事、嫌い?」 どうしてここで突然手塚の名前が出てくるんだろう……。 「嫌いじゃないよ」 「でも、なんでもかんでも走らせる手塚に、反発したくなった事ない? 一回くらい負かしたいとか思った事ない?」 「あるよ。二番目の方なんて毎日思ってる」 「俺も。でも、俺は手塚の事けっこう好きだな。部長として信頼できるし」 ……そう、来ちゃうんだ。 僕と裕太は兄弟だから、常に比較対象にされてしまうから……手塚へ抱く感情よりももっと生々しくて、もっと複雑だから、そんな簡単に片付く事ではないんだけど。 でも、そうだね。 基本は、それと同じでよかったんだね。 「タカさん」 「ん?」 「なんか、落ち着くや、タカさんと居ると」 「あー俺よく爺むさいって言われるんだよね。そんなつもりないんだけど」 いや、別に、そう言う意味で言ったわけじゃないんだけど。 ああでも、優しいお爺さんと縁側で日向ぼっこしている孫の気持ちって、こんな感じかもしれないね。あながち間違っていないのかも。 すごくほっとすると言うか。 安らぐと言うか。 「休憩終了! レギュラーはA、Bコートに集まれ!」 低い低い手塚の声が、ふたたびコート内に響き渡って。 あーあ。さっきまでは神様の声に聞こえたのに。 今は悪魔の声にしか聞こえないや。 |