鈍い痛み

 見開かれた目はどこを見ていたのだろう。
 タオルを持つ左手は、口元を抑えるようにそこで止まっていた。暇を持て余すか、水分補給のために動くはずの右腕は、胸を掻き毟るがごとく、己の胸倉を掴んでいる。
「シングルス3、前へ」
 呼ばれて俺は立ち上がった。
 常用しているラケットを取り出し、コートを睨む。相手チームのシングルス3の選手は、すでにコートの中に歩みを進めていた。
 あれが俺の対戦相手か。ダブルス主体のチームにおける、シングルスのエース。
「あ……手塚」
 それまで虚ろな目でどことも知れない一点を見つめ続けていた男は、そこでようやく次が俺の試合だと気付いたらしい。慌てて顔を上げ、俺を呼び止める。
「がんばってくれ」
 いつもならば簡素な応援の言葉と共にあるはずの、微笑みも強いまなざしも、そこには無かった。

 ダブルスで二連敗を記したものの、その後のシングルスで三連勝をする事で、チームとしての勝利を納める事はできた。
 それでも大石の表情は、明るくなる事を知らない。
 珍しい事だと思う。大石はたとえ自分が負けても、チームメイトの勝利、そしてチームの勝利を、全力で喜べる人間だったはずだ。
 大石は力無い歩行で俺の隣を歩き、同じバスに乗り込む。
 おしゃべりと言うわけでは無いが、普段ならば何かしら試合の感想を述べていそうな状況だ。しかし大石は俯きがちのまま、沈黙を守っている。
 バス停をひとつふたつ過ぎた頃だろうか。
「手塚」
 大石が、その柔らかな声を硬質化させ、俺の名を呼んだのは。
 呼ばれて振り返ってみても、大石は俺を見ているわけではなく、俯いたまま。先ほどの、ダブルスの試合を終えたばかりの時のように、自身の胸元をぐっと掴み、その手を震わせている。
「負けるのは悔しいし、悲しい。そのくらいの事、俺は知ってる」
 一度噛み締める事で震えを止めた唇は、ごくあたりまえの事を紡ぐ。
 敗北を悔やむ心が無ければ、人は成長しない。大石が数々の勝利や敗北を糧にして、ダブルス1の地位を築いた事を、俺は知っている。
「けれど、今日は違うんだ」
「……?」
「悔しいとか、悲しいとか。そんなのじゃなくてただ、痛い。激しくはないけれどずっしりと重い痛みに、支配されている気分だ」
 胸元の右手に、力がこもる。
 大石が痛みを覚えているのは、その手の中にある部分なのだろうか。
「こんなどうしようもない敗北感ははじめてで……正直言って、戸惑ってる」
 俺には大石の訴える痛みが理解できない。
 それは俺が、今日大石が味わったような苦い敗北を知らないためでもあれば、人の心を理解する能力が大きく欠落しているからでもある。
 だが。
 その痛みの、理由は判る。
「今日のダブルス1の試合の、正直な感想を言おうか」
 大石はゆっくりを顔を上げ、両の瞳で真っ直ぐに俺を見上げる。
「言ってくれ」
 覚悟の篭った、少しだけ力強さを増した瞳。
「少々驚いた。あのような不様なプレイをするお前を今までに見た事がなかったからな」
 瞳も、表情も、大石のすべてが一瞬強張った。一瞬後、体から力が抜けたのか、胸元を掴んでいた手が、力無く膝の上に落ちる。
「……ああ。そう、だな」
 大石と打ち合った事は何度でもある。
 今まで一度として俺が負けた事は無いが、それでも大石は常に冷静で焦る事なく、慎重で粘り強いプレイを最後まで貫き通していたように思う。
 大石の本領であるダブルスの試合ならば尚更の事で、あのような――今日のような、自滅に走る不様なプレイなど、今まで見た事はなかった。
「俺は負けたんだな。あのペアと……それから、自分にも」
 現実を受け入れた大石の横顔は、今までと比べると若干晴れやかで、普段の彼の表情が垣間見えた。背中を背もたれに預けて目を伏せると、すっかり穏やかさを取り戻している。
「また戦いたい。そして今度は勝ちたい」
 誰と戦いたいのか、誰に勝ちたいのか、大石は明確に述べようとはしなかった。
 ただいつものように柔らかく微笑んで、
「ありがとう、手塚」
 真っ直ぐな感謝の言葉を口にしただけだった。


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