終わらない夏

 兄さんは流れる汗を拭う事も忘れて、空を見上げていた。
 首をほとんど九十度傾けていて、真っ直ぐ真上を見ていたから、兄さんがどんな顔をしているのか、私たちには判らない。唯一兄さんより背が高い石田さんなら、顔を覗き込む事はできたんだろうけど、石田さんはそんな事しない。
 だって私たち皆、兄さんに近寄る事すらできなかった。
 試合が終わったら兄さんに渡そうと思っていたタオルを握りしめたまま、私は動けなかった――動かない足がもどかしくて、腹が立つ。
 兄さんが負けた事は、それくらいショックな事だった。
 私はもう十四年も、兄さんと一緒にいる。兄さんがテニスをはじめたばかりの頃を知っているし、だから、兄さんが弱かった頃も見ていたし、負けたところも見た事がある。
 そんな私でも信じられないんだから、九州二強と呼ばれるほどの実力を得てからの兄さんしか知らない皆が呆然としてしまうのは、当然の事。
「お前ら、何ぼーっと突っ立ってるんだ」
 微笑んだ兄さんが、皆に振り返る。
「試合は終わったぞ。整列だ」
 それまでの皆は、多分、これを夢だと思っていたのか、それか、夢だと信じたかったんだと思う。
 なのに、当の兄さんによって現実だと教えられてしまう事は。
 戸惑う石田さんの背中を叩いて、呆然とした神尾くんの腕を引く桜井くんの横顔は、誰よりも辛そうだった。
 内村くんはいっそう深く帽子をかぶって、伊武くんは俯く事で、顔を隠しているように見えた。
 森くんは今にも泣きそうな顔をしていたけれど、我慢しているのが伝わってきて、私の方が悲しかった。

 顔を洗ってくると言った兄さんの背中を見送ったあと、最初に呟いたのは、アキラくん。
「俺たちのせい、かな」
 皆の視線がいっぺんに、アキラくんに集まった。
「何だよアキラ、突然」
「だってよう……橘さん、俺たちの練習にばかり付き合ってて、自分の練習できてたのかって思うだろ」
「やめろよアキラ」
「そもそも俺たち、橘さんの練習相手になれるほどの実力ねえし。自分より弱いやつとばっかり試合したって……」
「やめろ!」
 桜井くんが怒鳴りつけると、俯きぎみだったアキラくんは顔を上げて、桜井くんを睨んだ。
 握りしめられたふたりの拳が震えてる。それが、ふたりがどれだけ悔しがっているかを私に教えてくれる。
「橘さんはそんな、俺たちを言い訳にするような事、しないだろ」
 うん、そうだよね、桜井くん。
 でもアキラくんみたいに思ってしまう気持ちも、判るよね。
「ありがとう、ふたりとも」
 だから自然と感謝の言葉が、口をついてた。
 多分だけど、兄さんがここにいたら、そう言うと思ったの。
「バカヤロウ神尾! くだらねえこと言ってんじゃねえ!」って怒鳴りつけるのとどっちが先かは判らないけど……でも兄さん、嬉しいと思う。
 アキラくんたちが責任を背負おうとしている事じゃなくて、何て言うのか……自分の負けを、まるで自分の事のように悔しがってくれる事が。
「大丈夫よ。大丈夫。兄さんは、強いから」
 きっと今頃、顔洗いながら、立ち直りはじめてるよ。明日への闘志を燃やしてる。
 私はずっと、そう言う兄さんの背中を見てきた。
「杏ちゃん」
「本当に強い人は、負けた事に反省はしても、落ち込みはしないんだって兄さん言ってたよ。だから皆、明日から大変だね。全国大会に向けて、今まで以上の猛特訓はじまっちゃうんだから」
『今まで以上……!?』
 と、一瞬、皆怯んだけど。
 すぐに真剣な目になって、肯きあう。
 そうよね、今までだってそうとう辛い練習だったと思うけど、今より強くならなければ、全国で優勝狙えない事、皆判っているから。
「そうだよな。まだ全国がある」
「大体一ゲームも返せなかった俺らの方がよっぽど問題だ。足ひっぱるだけじゃねえか」
「明日からまた頑張るぞ!」
「橘さんと対等に渡り合えるくらい、強くならないとな」
「神尾には一生無理だろうけどね」
「言ったな深司!」
「喧嘩はやめろよふたりとも、こんな時に!」
 深司くんとアキラくんは、一触即発って感じだったけど、それでも六人でしっかり、明日への誓いを胸に秘めて円陣を組む。
 こう言う時、男の子に生まれてきたかったって思うなあ。そしたら私も、この中に入れてもらえた(と思う)のに。残念。
「なんだお前ら、突然円陣組んで」
『た、橘さん』
 あら、兄さん。もう帰ってきたの?
 元々タフな方だったけど、それにしてもずいぶん、立ち直りが早くなった事。
「俺だけ仲間はずれか?」
『とんでもない!』
 皆が皆、兄さんが入るためのスペースを作ろうと手を離したから、円陣はバラバラ。
 七人が困ったように顔を見合わせる様子がおかしくて、私が吹き出すと、皆も笑いはじめちゃった。
 そうね、兄さん。
 こんな優しくて、頼もしくて、かわいい後輩が六人もいたら、ゆっくり落ち込んでもいられないよね――幸せすぎて。
「杏」
 一番近かった石田さんと深司くんの間に入った兄さんは、私の名前を呼んで、手招きしてくれた。
 ……それって。
「いいの?」
「いいだろ?」
「もちろんです!」
「当然ですよ」
「杏ちゃんも俺たちの仲間ですから!」
 やだなあもう。
 あんまり嬉しくて……困っちゃうじゃない。
 私は上手く笑える自信、なかったけど、それでも頑張って笑ってみながら、皆の輪の中に入れてもらう。
「まだ夏は終わってない。今日は負けちまったが、まだまだこれからだ――勝つぞ、全国!」
『はい!』
 重なり合う声が嬉しくて、私は気付くと、涙をこぼしていた。
 でもそれは、私だけじゃない、よね、きっと。


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