「神尾、深司、頼みがあるんだが」 橘さんに名前を呼ばれると、神尾はそれまでしていたろくでもない話題をさっさと打ち切って、素早く振り向く。 「悪いが……放課後、俺の練習に付き合ってもらえるか?」 橘さん直々の頼みを、俺や神尾が断るわけがなかった。 練習中に行われる橘さんとの試合のスコアを、ちゃんと数えるやつは居ない。 「ゲーム、橘さん!」 いつもいつも結果は同じ。6−0で橘さんの勝利。数える必要がないんだ。 橘さんは汗こそかいているけれど涼しげな顔をしていて、対する神尾は、汗と泥にまみれてコートの中で倒れ込んでいる。けれどその顔は屈辱に満ちているわけではなく、清々しそうだ。 こんな敗北なら、きっと受け止められる。神尾と同じように、俺だって、みんなだって――橘さんだって。 だけど。 コートから出てきた橘さんが、タオルで汗を拭いてから、ゆっくりとした動きでジャージを羽織る。 その動作が、未だ体に生々しく残るいくつもの傷や痣を隠すために見えるのは、俺の気のせいなんだろう。橘さんはそんな事を考えてもいないだろうから。 「傷とか、大丈夫ですか?」 心配そうに石田が聞くと、橘さんは、「だから大した事ねえって言ってるだろうが」なんて言って笑った。 そりゃあ確かに、昔のろくでもない連中に殴られた時に比べれば、大した事はないかもしれない。けれどあの時、橘さんも含めた俺たちが怪我したのは喧嘩(と言うかほとんど一方的に殴られたんだけど)をしたからであって、テニスでできた傷や痣じゃなかった。 「次、ダブルスだろう。見ててやるから、行ってこい」 「はい」 石田は頷いて、橘さんのそばを離れて、コートに入っていった。その間に、桜井と森が協力して神尾をコートから追い出している。 俺は橘さんに近付いた。 一昨日の試合を――アレを試合と言っていいのならば――気にしてる様子がまるでない、いつものように力強い眼差し。 まあね、この人、キレそうだった俺たちに対して、「相手が返せない、返しにくい球を打つのはテニスの基本で、体に向かって飛んでくる球は返しにくいと言うのはテニスの常識だ。返す事も避ける事もできなかった俺が鈍かっただけの話だろう」とかケロッと言っちゃうような人だしね。 ルール的にはそれでいいのかもしれないけどさ……なんか、違うだろ。なんか。 「橘さん、気付いてます?」 「何がだ?」 「今日、神尾に1セットの内に5ポイント取られましたよね」 「珍しい事でもないだろう」 充分珍しい事なんだけど。5ポイントって、連続で取られてたら1ゲームとられてたって事なんだから。 まあ橘さんだって神尾のスピードにかく乱されれば、ミスもするし失点もする。神尾にポイントをとられた事が問題なわけじゃない。 「5ポイントの内4ポイントが、神尾のスマッシュエースです」 「そうだったな」 「残りの1ポイントも、スマッシュをかろうじて返したあとにコーナーを突かれたものでした」 「5ゲーム目のプレイだな。覚えてる」 じゃあ、気付いているんだろうか。 「橘さん、相手のスマッシュに対して、一瞬反応が遅れてますよね。以前はそんな事無かったのに」 俺が言うと、橘さんの微笑みが一瞬だけ硬直する。 「さすがだな」 そして硬直が解けたあとの微笑みは、今までにも増して優しげだった。 まあね。俺、人の弱点見付けるのけっこう得意だからさ。 あんなふうに一方的に怪我を負わされたばっかりじゃあ、自分の意思とは関係無いところで、体がかばっちゃうんだよね。どうしても。 「今なら俺、橘さんに勝つのはやっぱり無理でしょうけど、2ゲームくらいなら取る自信ありますよ」 「ほう。強気だな」 「冷静に判断すればそんなもんだと思いますけど」 「5ポイント目を取られた時も、見ていたのにか?」 5ポイント目? 神尾にコーナー突かれた時の事だよな? かろうじてスマッシュを返して。 ……かろうじて、スマッシュを。 返した? 「!」 橘さんの笑みが、少し子供っぽく変わる。 すっかり……騙された……。 良く考えてみたら、そもそもこの人が、神尾なんかに五回もスマッシュを打たれるわけがない。 自分から打たせて、少しずつ慣らしていっていたのか。 「頼んだだろう? 『俺の』練習に付き合ってくれってな」 「……頼まれました」 「このダブルスの試合が終わったら、次は俺とお前の試合だ。頼んだぞ」 「……はい」 なんとなく釈然としないような悔しいような、そんな気分ではあるけれど、やっぱりこの人はいろんな意味でタフなんだと知れた事は、嬉しいような安心したような、微妙な気分だ。 ……2ゲームは、無理かもな。 じゃあせめて、1ゲーム。 それだけでも取って、今度はこっちが驚かせてやる。 |