好きになってごめん

 お昼休みの中庭で。
 ゆっくりとお弁当を食べ終えた桜乃ちゃんは、パックに残ったジュースを飲みながら、細い手首に巻きついた、小さな腕時計の盤面を見て――突然、慌て出した。
「忘れてました! 私、次、移動教室です!」
「あ、そうなんだ」
 言われて時計を見てみると、予鈴まで五分。本鈴まで十分。移動教室なら予鈴までには教室に戻っておきたい事を考えると、そろそろ慌てる時間帯、かな。
 俺たちは目の前に広がっていた弁当箱を片付けて、その場を後にする。
「ゴミ、俺が捨てておくからいいよ」
 ジュースのパックを捨ててもいいゴミ箱は、自動販売機のそばにしかないから、彼女が教室へ向かうには少しだけ(ほんとうに少しだけ)遠回りになる。でも、一分一秒を争う(ってのは、言い過ぎかな)今の状況ではその遠回りも辛いだろうし。
 俺が微笑みかけると、桜乃ちゃんは少しだけ戸惑って、「すみません、お願いします」と言って頭を下げた。
「授業、遅れないようにね」
「はい!」
 階段に向かう彼女と、ゴミ箱に向かう俺と、昇降口で別れて、走り去る彼女に手を振る俺。
 さて、ゴミ箱に行くか。
 俺が約九十度、方向を転換すると。
「不二」
 ほんの二、三メートル離れた所に、不二が立っていた。何だか妙に眩しそうな、ぼんやりとした、表情で。
「や、大石」
「どうしたんだ? こんなところで」
「別に。大石こそ――って、そうだね。竜崎さんとお昼一緒してたんだ。付き合ってるんだもんね」
 ……あれ?
「俺、話たっけ?」
「ううん。英二に聞いた。ものすごくしょげてたよ」
 不二が微笑みながらそう言うと、俺は苦笑する事しかできなくて。
 でも、そうか。不二には人伝に伝わっちゃったって事だよな、これは。
「悪いな不二。隠すつもりはなかったんだけど」
 俺が謝ると、不二は「気にしないでいいよ」と笑ってくれた。
 隠す事ではないと判ってはいるんだけど、やっぱりこうして公にすると、妙に気恥ずかしいよな。どうしてだろう。
「むしろ」
「え?」
 不二の唇が動く様を、俺の両目はしっかりと捕えてしまった。
 掠れた声ははっきりと俺の耳には届かなかったけれど、唇の動きと合わせて、俺に意味を伝えてくる。
『むしろ、ずっと隠していてほしかった』
 間違いない。不二はそう言っている。
「……不二」
 俺は喉の奥から声を絞り出して、不二の名前を呼ぶ。
 それとほぼ同時に、予鈴が鳴り響き、俺たちの間に言葉は完全に失われる。
「ごめん、大石」
 予鈴が終わると同時に、不二は言った。
「好きになって……ごめん」
 天然だとか妙なところで鈍いとか、言われる事もある俺だけれど。
 それでも、不二のその言葉の意味が判らないわけがない。いっそ判らなければよかったと思ってしまうほどに。
 どうしていいのか、何を言っていいのか判らなくて、俺はしばらく無言で不二と見つめ合う形になる。
「違う、よ」
「大石?」
「それは俺に謝る事じゃないよ、不二。いや――誰に謝る事でもないんだよ」
 誰かの気持ちを制限させる事なんて、俺にも、いや、誰にもできる事ではない。
 だから不二が謝る必要なんてないんだ。絶対に。たとえ俺の心の中で、妙な葛藤が起ころうとも。
 そう、だよな?
 まあ、その、何て言うか、実力行使に出られた場合は、また話は変わるけれども。
「うーん……そう来ちゃったか」
 突然不二は、それまで浮かべていた切なそうな表情を消してしまって。
「え?」
「ふむ。河村のひとり勝ちだな」
「い、乾!? タカさんも!」
 それまで全くこの場になかった声に振り向くと、下駄箱に隠れるように、乾とタカさんの姿が目に入る。
「ちえーだ」
「英二!?」
 もうひとつ奥の下駄箱から、英二まで姿を現して。
 え? 何だ? 何なんだ? 一体どう言う事なんだ、これは!
 俺がひとりおろおろしていると、両手を合わせて申し訳なさそうな顔をしたタカさんが、俺に近付いてきた。
「ごめん大石。俺だけじゃ止められなかったよ」
「何言ってんのさ、タカさん。タカさんが言いだしっぺのくせにー!」
「ち、違うよ! 俺はただ予想してみただけで!」
 慌てて否定するタカさん。
 えーっと……そんな、四人だけで盛り上がられても、俺にはさっぱり意味が判らないんだけども。
 意味が判らないだけで、嫌な予感だけはたっぷりなんだけどな……。
「あのさ、僕たち三人、昨日英二から大石と竜崎さんが付き合ってるって話を聞いてね、それでどうしてそう言う話になったのか判らないんだけど、僕も実は竜崎さんが好きなんだ、って展開になったら大石の反応はどうなるかって話になったんだ」
 ……どうして、そんな話に。
「そうしたらタカさんが、大石はそんな事で怒ったりしないよーって言い出して」
 ……はあ。
「じゃあデータを取ってみようって乾が言い出したんだよね」
 ……さすが乾だな。
「ちなみに脚本、演出、主演は全部僕で」
 ……まあ、他の三人が考えた台詞や演出とは、思えないよな。なんとなく、情緒があったし。
「『すまない不二。でも竜崎さんは譲れない』……は結構いい線だと思っていたんだけどね。まあとりあえず、英二の『ごめん。俺は不二の気持ちに応えられない』の確率は0%だと思っていたから、それでなくて安心したよ」
「なんだそれは!」
「えー、だって、不二の脚本には『竜崎さんを』好きなんて一言も入ってなかったし、大石時々すごい天然ボケだから、そんな勘違いするかもなーって」
 いや、さすがにしない。さすがに。
「ま、笑って許せ大石。彼女の居ない男のヒガミだと思ってひとつ」
「……タチが悪すぎるだろう。俺、本気でどうしようかと思ったんだぞ」
「でも本当じゃなくて良かっただろう?」
 そう言って、不二は笑う。いつもの優雅な笑みに、ほんの少しイヤミのようなものを足して。
「まったくだよ」
 四つの友人の笑顔に囲まれて、途方もない安堵感に支配される俺。
 思わず溢れてきた微笑みと、深い深いため息を、隠しきる事は不可能だった。


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