努力の人

 足元でボールが跳ねた。
 ボールは俺の後ろのフェンスにぶつかる事でスピードを殺し、跳ね返り、俺の背後をコロコロを転がる。
「アウト!」
 審判をやっている森のコールに反応してみてみれば、確かに、ボールの跳ねた跡はラインの外側にあって、今のはアウトで、だから、俺のポイントになる。ああ、じゃあ、このゲームは俺のだ。カウントは、2−2。追い付いた。
 けど。
 ネットの向こう、ベースラインあたりに立つ深司は、鋭い視線で俺を睨みながら、悔しそうに舌打した。
「……嘘だろ?」
 舌打したいのはこっちだっての。
 なんでだ。なんでボールが返ってきたんだ? 勘弁してくれよ。
 目にも止まらない早さで向こうのコートの端に突き刺さったボールは、そのまま飛び去って、深司の後ろのフェンスにぶつかるはずだったのに。
 返せるわけがなかったのに。

 陽射しから隠れるように、頭っからタオルをかぶる。
 そうすると視界は突然狭くなったけど、目の前のコートで繰り広げられる試合だけはしっかり目に入った。
「……くそっ」
 手の中にあったドリンクボトルを、地面に叩きつけてやりたい気分だった。けど中身がもったいないからそれはなんとか我慢した。
 どうせほとんど残ってないんだし、中身なんて気にするなよな、俺。
 そんなんだから。
「どうしたの? アキラくん。ずいぶん荒れてるみたいだけど」
 背中の向こうから、温かみのある高い声。
 慌てて振り返ってみると、フェンスを挟んだ向こうがわに、制服姿の杏ちゃんが、にこにこしながら立っていた。
「あ、杏ちゃん」
「何かイヤな事でもあったの?」
 イヤな事。
 そんなのは無いと言えば無いし、あると言えばありすぎるくらいだ。
 つまりは些細な事なんだけども、そんな事で他人から見てありありと判るくらいに荒れてるなんて、俺ってほんとなんつうか、情けない。
 何が一番情けないって、
「やっぱ、才能があるヤツって、ずるいよな」
 なんてしょうもない弱気な発言を、よりによって杏ちゃんに聞いてもらってる事か。
 あー。バカだ。アホだ。何言ってんだ俺。
 誰の事を言ったのかも、何があったのかも、バレバレじゃんか、これじゃ。情けない。情けないってか、恥ずかしいってか。
「……アキラくんさ」
 何を言われるかドキドキしていた俺は、杏ちゃんの声音に呆れとかが感じ取れなかった事に、ちょっとほっとした。ちょっとだけ。
「『ガラスの仮面』、読んだ事ある?」
「……は?」
 なんか名前だけは聞いた事、あるな。有名な漫画だよな。
 でも確かそれ少女漫画だろ? なんで俺がそれを読むと思うんだ? テニス漫画ならまだともかく。
「あ、やっぱり無いんだ。ウチのクラスの女子ではやっててね、最近男子の方にも回りはじめてるから、ひょっとしたらって思ったんだけど。桜井くんも読んでるみたいだし」
 ……読んでるのか、桜井。
 それにちょっと、びっくりだ。
「主人公が演技の天才でね、主人公のライバルに、お嬢さまで美人で小さい頃から演技とかの勉強してて、もてはやされてた人が居るんだけど、主人公の才能を見抜いて、ちょっと劣等感を抱いているとことかあって」
 その話が一体、今何の関係があるのか、俺にはさっぱり判らなかった。
 俺がバカだから……じゃあ、ないと思うんだけどな。
「ある時ね、お嬢さまが気付くんだよ。ヒロインは演技の才能はあるけれど、それを表現しきるだけの土台――お嬢さまが小さい頃から努力してきた基礎的な能力ね。それがまだ無い事に」
 その話が一体、今何の関係があるのか。
 少しだけ判ってきたような、まだ判らないような。
「だからね、すっごくボールコントロールが上手い選手が居るとするじゃない。天性の才能の持ち主で」
 杏ちゃんは実名を出さないけれど、全部ばれてるのは明らかだ。まあ、あたりまえだろうけどさ。
 あーほんと、俺ってカッコ悪ぃ。
「でもね、どんなにボールコントロールが上手くても、ボールに手が届かなかったら、結局何にもできないのよね」
 フェンスの向こうの杏ちゃんが、しゃがみこんで、膝を抱えた。タオルに隠れた俺の顔を覗き込むように。
 ちらりと見えた彼女の表情は、すごく優しげな微笑みだった。
「テクニックに優れた天才でも、そのテクニックを生かすためには、ボールに追いつくための脚力とか、相手のボールをいなせるだけのパワーとか、そう言うのを努力して鍛えなきゃいけないんだよね。ある程度ならテクニックで補えるのかもしれないけど」
 確かに、そうだけど。
 でも手塚さんの手塚ゾーンみたいなマネができれば、足なんていくら遅くたって問題なさそうだ。あれはちょっとケタが違うけど。
「ねえアキラくん」
「ん?」
「そう言う人の目には、アキラくんが持ってる天性のスピードとか、石田さんの持ってる天性のパワーとかって、どんな風に映るんだろうね」
 ドキッとした。
 あいつの目に、どんな風に自分(とか石田)が映るかなんて、考えた事もなかった(イヤあいつは基本的に橘さん以外の全員を見下してるのは知ってるんだけど)。
 俺があいつのキックサーブとかを返すために、すんげえ努力したみたいに、涼しそうな顔しながら、あいつもがんばってたんだろうか。
 俺の球を、返すために。
「ほんっと、情けねーな、俺」
 空を見上げた。
 陽射しが眩しくて、タオルを頭の上から、顔の上に移す。
 布一枚挟んで目に届く光は、妙に優しい。
「そんなコト、ないよ」
 たぶん、すごく優しい笑顔で言ってるんだろうその言葉は、とても優しく俺の胸に届いた。


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