内緒話

 たとえば女テニの活動が終わったそのあととか、女テニの練習がない日の放課後とか。
 彼女――杏ちゃん――の姿を、最近よく、フェンスの向こうに見かける。
 雨の日とかでも居る事があって、たいていの日(橘さんが練習のあとも残って何かをする日を除いて、だ)は橘さんと一緒に帰ったりするから、家に帰ればどうせ会えるのによっぽど仲のいい兄妹なんだなあと思った。
 けれどそれなら、最近じゃなくて新テニス部が創設された頃からそうしているべきだとも思う。
 なんだろう。
 割と、と言うかかなり、気になる。
「なんつうかさ」
 深司との激しい打ち合いを終えて、タオルで汗を拭く神尾は、俺が見ているのと同じ方向を見ていた。
「最近杏ちゃん、よく見かけるよな」
「……ああ」
「前からけっこう来てたけど、今みたいに頻繁じゃなかったよな」
「そうだよな」
 いつもならばすべらかに続いていくはずの世間話。それなのに今日は、なぜかすぐに詰まってしまう。
 神尾はタオルで汗を拭くふりをして、自分の視界から杏ちゃんを遮ってから、俺に振り返った。
「誰、見てるんだろうな」
 俺は何も返せなかった。
「彼女が特定の人物を見ているとは限らないだろ」、とか、笑いながら返してしまえばすんだのかもしれないけれど、なぜかそんな気にならなかったのは、神尾の気持ちが判ったからかもしれない。
 杏ちゃんが、自分を見ていればいい。
 きっと神尾は、そう思ってる。
 そして、そんな神尾の気持ちに簡単に同調してしまったのは、自分も心のどこかで、同じ事を思っていたからなんだろう。
「深司じゃないのを祈るしかないよな」
「……さすがにそれはねーだろ」
「でも、一番見応えがあるのは確かだろ」
 こんな事なら、気軽に笑って言えるんだなあ。
 ふてくされる神尾の横顔を見下ろしながら、俺は微笑んだ。

 部活のあと、着替え終わったのは、どうやら俺が一番はやかったらしい。
 それは、神尾と内村が部室のすみっこで小突き合いをしていて、桜井と森がそれを止めていて(俺は以前、ふたりを止めようとしてうっかり内村をつぶしかけたので、殴り合いの喧嘩に発展するまでは仲裁に入るなと桜井に言われた)、深司が相変わらずマイペースだったから、なんだけど。
「ああ、そうだ、石田。悪ぃ」
 俺の次くらいに着替え終えた橘さんが、何かを思い出したような顔をして振り返る。
「俺は今日残ってやる事があったんだ。杏に先に帰ってるように、伝えておいてくれないか。多分校門のところにいるから」
「はい、判りました」
 頷いて、荷物を持って、仲間たちを置き去りにして俺は校門に向かう。
 はじめは普通に歩いて、徐々に早歩きになって、小走りになったのは、自分で気付かないふりをする。
 やがて視界に飛び込んできたのが、日が落ちる直前の、温かなオレンジ色の光を浴びて、立っている杏ちゃんの姿。
「杏ちゃん!」
「石田さん。どうしたの? ひとり? 珍しいね」
「いや、みんなそのうちくるだろうけど。橘さんが、用事があるから先に帰るように杏ちゃんに伝えてって」
「なんだ、そっか」
 杏ちゃんは少し呆れたようにため息をつくけれど、怒っている様子も悲しんでいる様子もなかった。
 だからかは判らないけれど、俺の心は油断していて、ついつい、無駄な事を口走る。
「杏ちゃんさ」
「何?」
「最近よく、男テニ見てるよね。なんで?」
 うわ、と。
 口にしてから俺はあせって、でもそれを気付かれないように、必死に平然と装う。
 杏ちゃんは目を見張って俺を見上げる。
 それから、ふわっと柔らかく笑って、
「内緒よ」
 と言ってから、続けた。
「色んな石田さんを、見てみたいと思ったから」


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