流れる汗

 はじめに教えられたのは、ラケットの握り方だったっけか。
 いつも手にしているモノがラケットって呼ばれてるものだって、ずいぶんしてから知ったはずだからな。
 今の半分くらいしか身長がなかった(たぶん)ガキの頃、俺たちは飛んできたボールを適当に打ち返してただけだったはず。相手コートに返さなきゃいけねえとか、ワンバウンドまでで打ち返さなきゃいけねえとか、そんなルール知ったのも、やっぱずいぶんしてからだったから。
 ガキのころの俺たちがしていたのは、ただの球遊び。
 コートの中に入って、ルール覚えて。ただの球遊びが「テニス」ってスポーツに変わったのは、いつだったんだろうか。
 具体的な時期なんて、多分誰も覚えてないだろうな。気付かないうちに、俺たちはテニスをやってたんだ。
 だから、俺たちは幸せなのかもしれない。
 勝つ喜びとか負ける悔しさとか、そんな事を知る前に、ただ打ち合う楽しさだけを知ったんだから。
「あーあ、負けちまったなー」
 それがひとり言のつもりだったのか、隣に座るダビデに聞かせようとしていたのか、自分でも判んねえ。
 ダビデは何の反応もしなかったから、たぶんダビデも、どっちだか判んなかったんだろうな。
 それとも、俺の声なんて聞いてねぇのか。
 いつもはガチガチの髪も、汗と激しい試合ですっかりほぐれちまって風に揺らされてる。髪が視界を遮る事もあんだろうに、全然気にしねーで、じーっとコートを睨みつけてやがる。
「おーい、ダビくん?」
「……最後なのか」
 ダビデが、マジな顔して急にそんな事を呟くから、俺は驚いた。
 こいつがこんなマジな顔してんのは、新作のダジャレが考えついた時くらいのハズなんだけどな。
「おいおい。最後じゃねえだろ」
 確かに俺たちは負けちまったから、もう、この大会で試合をする事はなくなっちまったけど。
「俺は引退しても、高校行っても、テニスをやめるつもりねえし。お前は新人戦とか、来年の大会とかがあんだろ? だから、最後のわけねえんだよ」
 ずっとずっと、続いていくだろ? 記憶があやふやなくらいガキの頃、オジイに教わった気持ちはさ。
 俺がダビの頭をぐしぐしと撫でると、
「うぃ……」
 ダビデは小さく返事をした。
 それからゆっくりと俺を見て、何回かまばたきを繰り返したかと思うと、またコートの方に視線を戻す。
 なんでそんな、コートにこだわってんだろうな、こいつ。コートがらみのダジャレでも、考え付いたのか?
 なんでか気になって、ダビの頭から手を離して、俺もコートの方を見てみた。かと言って油断はしねえ。いつでもツッコミ入れられるように構えとく。
「でも」
「あ?」
「バネさんと一緒にコートに立てる大会は、これで最後だ」
「……ああ」
 そう言や、そうか。
 同じ高校行けば、またダブルスとか組む機会、あるかもしれねえけど、少なくとも中学の大会じゃあ、もう二度とねーんだよな(草テニスなら話は変わっけど)。
 そう言う意味では確かに、最後だ。
「そうだなあ」
 楽しかったし、悔いがあるわけじゃねえから、未練とかそんなのは全然ないと思うんだけども。
 よく考えてみたら、寂しいかもな、それは。
「でもま、同じコートに立つなんていつでもできるだろ、俺とお前ならさ。高校行っても、就職しても、ヨボヨボのジジイになったって」
「……うぃ」
 その時、俺の目の端に映ったものは。
 ダビデの、膝の上で組まれた手に、ひとつぶこぼれ落ちる雫。
 俺はその正体を確かめる事もせず、正面を向いたまま、手にしていたタオルをダビデの顔面に投げ付けた。
「……痛い」
「うっせ。お前、汗くせえんだよ。さっさと汗拭け」
「……うぃ」
 ダビはタオルに顔をうめたまま、小さく肯いた。


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テニスの王子様
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