「手塚」 俺が名前を呼ぶと、ボレー練習中でコートに入っていた手塚は、打ち返そうとしていたボールをラケットではなく手のひらで受けて止めて、振り返った。 「練習中なのに悪い。来週の練習試合の事で、ちょっと急ぎで相談したい事があるんだ。いいかな?」 訊ねると、手塚は一瞬だけ間を開けたけれど、すぐに目を伏せて頷いてくれる。 「悪いな、海堂」 俺が手塚の相手をしていた海堂に謝ると、海堂は「別にいいッスよ」と小さく答えて、会釈をしてくれた。 やっぱり、とっつき難いけれどいいやつだよな、海堂は。まあ俺が桃城だったとしたら、ここで喧嘩のひとつやふたつ起こってしまいそうだけれど。 「菊丸。代わってくれ」 手塚は手にしていたボールを、レギュラーメンバーの中で一番近くに居た英二にそっと投げると、そっけなくそれだけ言ってタオルを手に取り、流れる汗を拭った。 「俺がやっていいの!?」 「頼んだ」 「わーい! ようし、海堂! 覚悟しろよ!」 天性のボレーヤーである英二は当然、この練習が好きだから、後を託されてとても喜んでいる。偶然とは言え手塚は、最も適任者に後を託した事になる……かな? 相手をする海堂は苦労するかもしれないけれど、いい練習になるだろうから、諦めてもらうか。 誰も居ない部室に入ると、手塚はゆっくりとベンチに歩みより、腰をおろす。 コートの中では無表情だったその顔に、僅かな苦悶の色が浮かんだ。 額に浮かぶ汗は、運動によって発生した熱によるものではなく、苦痛によるものなのは明らかだ。 俺はあらかじめ準備をしておいたコールドスプレーを手にとって、手塚が肩に羽織っているだけのジャージをめくり、今最も熱を持っているだろう左の肘に噴きかけた。 「あまり無茶をするなよ」 俺は、何度繰り返したか思い出せない言葉を、今日もまた手塚に投げかけた。 言わなくても手塚は判っていると思うんだけどさ。基本的にはおじさんの言いつけをちゃんと守ってるからな。「中学生なのにすごい精神力だ」って、おじさんも褒めていたくらいで、俺もおじさんの意見に心底同意する。 まあ今日は、ちょっと目算を誤ったってところだろう。本人だってボレー練習が終わったら自発的に切り上げるつもりだっただろうし。 でもなあ。 確かに、練習を中途半端に切り上げるのはあまりにも不自然で、みんなに肘の故障を知られたくないと思っている手塚としては、やりたくなかったんだろうけれど。 それで手遅れになったらどうするんだよ。まったく。 「それで、来週の練習試合のオーダーの事だけれど、海堂をシングルス3に入れてみたらどうだろう」 「……練習試合の事で相談したいと言うのは、本当だったのか?」 「いや。でも、本当の事にしておかないと、あとで聞かれた時とっさに嘘を吐ける自信がないからさ、一応話しておこうかと思って。だから流してくれて構わないよ」 言いながら俺が手塚の隣に座ると、 「オーダーの変更はない」 理路整然とした簡潔な答えが、隣から返ってきた。 「……了解」 今の状況は割と良くない状況だと判ってはいるんだけど。 それでもなんとなく微笑んでしまうのは、妙な安心感が胸の中に沸き上がるからだ。 「まだ痛むか?」 もう大丈夫だ、と言いたげに、手塚は静かに目を伏せる。 表情も和らいでいる(=無表情になっている、なんだけれど)し、へんな汗もかいてないみたいだし……今日はおじさんに診てもらえる日だから俺が心配する必要はないのかな。 俺は安堵のため息を吐きながら、立ち上がる。 そうして肘をかばうようにそっと左腕に触れる手塚を見下ろしながら、ふと、とある疑問が沸き上がった。 疑問と言うか、単純な質問と言うか。 「手塚はさ」 俺の声に応えて、手塚は顔を上げる。 「どうしてテニスをするんだ?」 そんな辛い思いを乗り越えてまで、お前をテニスに駆りたてるものは、一体なんなんだと。 それはもちろんテニスを愛する気持ち以外の何ものでもないのだろうけれど、妙に気になってしまったんだ。手塚がどう答えるのか。 「……」 手塚は口を開かなかった。 けれど答えは、涼しげな手塚の両の瞳に移る感情が示していた。 その色は、困惑の色。 俺の質問にはいつも、理論的な結論を簡潔に答えるあの手塚が。 何て答えていいか、困ってしまっているなんて。 「突然変な事聞いて悪かった。答えなくていいよ、こんなの」 俺はそれだけ言うと、手塚に背中を向けた。 そうすれば、声を出すのを我慢してしまえば、思いきり笑えるからな。 |