必殺技

「ネットを挟んでコートに立った相手がさ、自分を見てない時の空しさを、不二は知ってる?」
 今にも地平線に吸い込まれそうな夕日は、空を赤く赤く燃やしていて、それを眺めていた俺は、とあるひとりの少年の事を思い出していた。
「突然どうしたの?」
「いや、ふいに思い出したからさ」
 東京の聖ルドルフ学院から練習試合の申し込みが来たのは、今に比べてまだ風が優しくて爽やかな春のこと。確かまだ、県大会ははじまってなかったと思う。
 東京なら強豪校がいくつも揃っているだろうに、どうしてわざわざ千葉の奥地にあるうちに練習試合を申し込んできたのかと疑問に思ったけれど、淳曰く向こうは左利きの優秀な選手を練習相手として求めていたそうだ。それで、淳が俺のことを思い出して紹介したのがきっかけだったらしい。
 まあ、理由なんて別にどうでもいい事だけど。
「何を思い出したのさ」
 空を燃やす夕日のように。
 同世代の少年が抱くには強すぎるほどの闘志を燃やして、俺の前に立ったのは。
「裕太くんのことだよ」
 今、俺の隣で、俺と同じ空を見上げている人物の、弟だった。
「裕太?」
「本当に、すごい気迫だったよ。ネットの向こうから貫くように俺を睨みつけてきて」
 それでも、本当に睨んでいる相手は俺ではなかったんだよな。
 裕太君の目には距離的にもテニスの腕的にもはるか遠くに居た兄、不二周助しか映っていなかった。
 彼はそんなつもりなかっただろうけれど、これって結構侮辱だよね。
 俺なんて眼中に入れてないって事なんだからさ。
「だから、負けてくれた『だけ』なんだ」
「あ、判った?」
 不二が微笑んだのが、空気で判る。
「判るよ。前から少し、おかしいとは思っていたんだ。いつもの君だったら――裕太にしっかり注意をして、止めてくれるはずなんじゃないかって」
 まあね。
 本当はそうしてあげるつもりだったんだよ、俺も。
 周りなんか目に入らない、ただひたすら、兄だけを目指していた裕太君。
 発展途上の体にかかる負担に少しも気付かずに、強烈な必殺技を繰り返していた彼は、見ていてとても痛々しかったから。
 小さな頃から一緒に育った彼の事を、俺は確かに弟みたいに大切に思っていて、だから彼が無意味に傷付くのだとしたら、守ってあげたいとは思った。
 思ったけど。
「悪かったよ。許してくれとは言わないけれど、言い訳だけは聞いてくれるかい?」
「いいよ」
「素直に注意してあげるのが癪だったんだ。俺も、自分を侮辱した人に百パーセントの優しさで接してあげられるほど、人間できてないからさ」
 だから、負けてあげた『だけ』なのさ。
 彼の左肩にかかる負担を和らげてあげたくて、けれどゼロにしてあげるほどの優しさを、あの時の俺は裕太君に向けられなかった。
 まあどうせ、俺が何を言ったって、聞きはしなかっただろうけれど。
 それは本当に無様な言い訳にしかならないから、さすがに言わないでおいた。
「なるほどね」
 驚く事に、不二は微笑みを絶やさず俺に応えた。
「怒らないのか?」
「今回だけはね。だって全て、とはさすがに言わないけれど、半分以上は確実に裕太が悪いから。八割くらい?」
「判ってくれて嬉しいよ」
「僕もただの弟馬鹿じゃないからね――それに」
 不二は立ち上がる。
 微笑んだまま、俺に手を差し出す。無言で「帰ろう」と言っている。
 綺麗な夕日とお別れするには少し名残惜しいけれど、いつまでもここで立ち止まっていられないからね。
「それに?」
「君がその時裕太を正していたら、僕は裕太との和解のチャンスを完全に失ってただろう? そうしたら、未だに嫌われっぱなしだったと思うんだ」
「じゃあ、チャンスを残しておいてくれてありがとう、とか言わないのか?」
 俺が少しおどけてそう聞くと。
「言ってほしいの?」
 不二は穏やかな笑顔はそのままに、けれど声音を少し意地悪くして、逆に聞いてきた。
「遠慮しておくよ」
 俺が肩を竦めて答えると、不二は小さく吹き出した。


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