毀れた弓

 信じてる。
 信じようと、思っている。
 けれどときおり、とても不安になるから。
 大丈夫だよと、そう、言ってほしくなる。

 閑だ。
 射場に足を踏み入れると、震える事を知らない空気や、足の裏から伝わってくるひんやりとした温度が、俺を少なからず緊張させた。
 俺の前に立つ手塚は、お爺さんが柔道の師範をしているからか、こんな空気に慣れているんだろう。場に怯む事無く、冷静な目で的を睨みつけていた。
 弓道部の部長が、ちょうど矢を放つ所だった。
 風を切って飛び立った弓は、的の中心を僅かに外しつつも、しっかりと突き刺さっている。すごい、と思わず拍手をしそうになったが、精神統一の邪魔になると思って止めた。
「まだ来ないみたいだね、新聞部の人」
 袴姿がきまっている、弓道部の副部長が、俺たちのそばに近付いてきた。
「そうみたいだ」
 無言で振り返るだけの手塚に代わって、俺は笑顔で答えながら肯いた。
 今日は、新聞部の取材がある。
 部活紹介のような記事で、今月は弓道部と我らがテニス部らしい。ちょっとしたインタビューに応じてほしいとお願いされてしまった。
 手塚はこう言う事苦手そうだけれど、部活動の活発化を掲げている生徒会の会長である以上、断るわけにもいかなかったんだろう、な。インタビューの場所を選ぶ時、テニス部の部室やコート付近だけは駄目だと拒否したのは、せめて答えているところを仲間たちに見られたくないと言う一心から、かもしれない。
 だからって射場にしなくてもいいと思うんだけれど。どこかの教室とかで。
 でも、弓道部のひとたちがそれでいいって言ってくれたわけだから、いいか。
「ぼーっと待ってるのもつまんないだろうから、よければ、打ってみる?」
「いいのかな? 邪魔にならない?」
「ぜんぜん問題ないよ。新聞部が来て、帰るまでは、まともに練習もできなさそうだし」
「それなら、お言葉に甘えて」
 実は、一度やってみたかったんだ、弓道。
 弓道に限らず興味のある武道やスポーツは色々あるけれど、それらのほとんどは体育の授業でかじる事くらいはできる。でも、弓道だけはそうはいかないから。
 俺は手渡された弓が、思っていたよりも大きい事に少し驚きながら、見惚れていた。
 すごく気が引き締まる。射場に入った瞬間よりも、いっそう。袴なんて履いたら、もっと引き締まるんだろうな。
「これは……」
 手塚が俺の手にした弓を眺めながら、突然呟いた。
「手塚もやりたいのか?」
 もしそうなら、ふたりそろって断ろうと俺は思った。手塚は先日肘の故障が発覚したから、大切なテニスすら思う存分にできない。それなのに余計な事で(と言っては弓道に失礼だけれど)負担をかけてほしくないんだ。
「いや、そうではない。ただ……壊れていないか?」
「え?」
 短い手塚の問いかけに、弓道部の副部長は慌てて俺の手から弓をひったくった。
 言われてからじっくり見てみると、ほんとだ、なんか、紐で結んでむりやり形にしてある感じ。どうも割れているようだ。
「ワリ。これ、先月壊したヤツだった。新しいの買う予算がないから、念のためとっといてるだけのヤツ。ちゃんとしたヤツ持ってくるな」
「いいよ」
 俺は間髪入れず、そう告げる。
「それでも、打てるんだろう?」
「ああ、打てるけど、あぶないかもしれないぞ?」
「本格的に練習するわけじゃないから、いいよ、それで。素人の俺が下手な事して弓にダメージあたえても、それだったら問題無いだろうし」
 それもそうだな、なんて軽く答え、彼は弓を再び俺に手渡してくれた。
 本当は、この弓を望んだ理由は別にあるのだけれど、それは言えない。
 俺は確かめたい事があった。この弓で確かめても、意味は無いのかもしれないけれど――勇気を分けてもらえる気がするから。
 的を正面に立ち、ひとつ深呼吸をする。
 俺の背後に立った副部長は、親切にひとつひとつ、俺に弓道の作法を教えてくれた。
 彼の補助を受け、弓を引き絞り。
 放たれた弓は、当然の事ながら的にはあたらなかったが、的を掠る事はできた。
「すごいなー」
「すごい?」
 当たらなかったけれどすごいのかな?
「初っ端からちゃんと飛んで、的まで届いただけでもすごいって。何度か練習したら、すぐに的に当てられるんじゃないか? 俺たちの立場ねーっつの」
 それはどうかな。ひとりでやったらやっぱり、多分の例に漏れず、矢は的に届かず地面あたりに転がってそうだけど。
 けど、それでもいいんだ。
 それでいい。知りたかった事を、知る事ができたから。
「テニスに飽きたらいつでも弓道部来いよ。お前ならすぐに戦力になりそうだから」
「ああ。もしテニス飽きる日が来たら、その時は弓道部に入れてもらうよ」
 飽きない自信はあったので、俺は強気でそう答えた。
 すると弓道部の部長の声がかかり、ふたりが何やら話し込みはじめたので、俺は振り返る。
 射場に良く似合う、厳格な空気を背負っている手塚に。
「なあ手塚。壊れた弓でも……打てたぞ」
 的から少しはずれて突き刺さっている矢を見つめていた手塚は、俺の方に振り返った。
「ちゃんと直せば、元通りに打てるんだな」
 きっと。
 きっと大丈夫だよ、手塚。
 お前はまた戦える。ヒビひとつ無い、最強のテニスプレイヤーとして、再びコートに君臨できる。
 信じてた。
 信じようと、思っていた。
 けれどやっぱり、不安で。
 失う事など想像もできなかったほどに、大切な、大切なものだから。
「お前がそんな顔をしてどうする」
「っ! ごめん!」
 呆れたように(多分)手塚が言うから、俺は慌てて謝った。無自覚に無神経だったかと反省して。
「貸してみろ」
 差し出された手は、油断している俺の手から弓を奪い取る。
「こら手塚、無理は……」
 手塚は無言で俺がはずした的の前に立ち、弓道歴が五年くらいはありそうな綺麗な姿勢と滑らかな動作で、矢を放った。
 矢が鳴く音が、俺の時と明らかに違う。
 力強く、真っ直ぐに飛んだ矢は、さすがに中心は外したけれど、しっかりと的に突き刺さったんだ。
 それが、俺の中にある不安を、全て消し飛ばしたような気がして。
 ……手塚って、なんだかんだ周りに言われているけれど。
 俺は溢れてくる笑いを必死になって抑えながら、小さく拍手をして手塚に応える。
「優しい奴だよな」
「誰の話だ」
「ひとり言」
 本当の事を言ったら、手塚はきっと怒るだろう。
 だから、心の中でだけ言っておく。

 ありがとう。
 もう弱気になんかならないから。
 お前の復活を、ただひたすら強く願い、信じ続けてみせるよ。


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