本日の朝練開始時刻まで、残り二十分。 ひとりだけ先輩なんだし、そんな律儀に時間前行動しなくても誰も責めやしないのに、それでも橘さんはそろそろ、姿を見せるだろう。 そんな所もまた、橘さんが深い信頼と強い尊敬を集める、理由のひとつなんだろうけどさ。 「でも、ビックリしたぜ、深司」 部員一同マイナス橘さんで橘さんを待つ間、微妙な緊張がただよう中で、ひとり緊張感ゼロのヤツが俺を見上げながらそんな事を言う。ベンチに座って居る神尾だ。 いいよね。アホって。何でもかんでも些細な事と気にせずに、マイペースを保てるからさ……。 「何が?」 神尾のさして意味もないだろう会話に付き合ってやるなんて、俺ってなんていい奴だろうと感動しながら、俺は聞き返した。 「だって深司ってさ、こう言うの、好きじゃないだろ?『俺は遠慮するよ』とか言って、絶対断わると思ってた」 神尾の言葉に、俺を見ていた残り四人が、一斉に「確かに」と呟きながら頷く。 「ああ……」 俺は手の中にあるクラッカーをもてあそびながら、神尾の言葉に適当に答えた。 確かに神尾の言う通り、みんなが認める通りだよ。 こう言うのは心底くだらないと思うし、無駄だとも思うし、自分には絶対にやってほしくない。普段の俺だったらお前たちだけで勝手にやってろよ、って返していたね。間違いなく。 でも、俺がどう思うかじゃなくて……。 あの人はきっとこう言う事、喜ぶだろうと思ったからさ。 「もし」 「ん?」 「次に部室に入ってくるのが、橘さんじゃなくて神尾だったら、断わってたよ。朝いつもより早く起きるの面倒くさいしね……」 「……コノヤロウ」 神尾はぐっと拳を握り締めたけれど、手の中のクラッカーを握りつぶさないように、手をふるわせながら堪えていた。 へえ、やるじゃん、神尾。そう言うところに気を回せるんだ。少しだけ、本当に少しだけ、見直してあげるよ。思っていたよりはアホじゃないってね。 「あ、橘さん、来たっぽいぞ!」 部室のドアに耳を当てて、外の音を探っていた桜井が声を張り上げる。 しんと静まりかえると、部室の中にもかすかに、足音が聞こえてきた。それは徐々に強まって、こちらに近付いてきている。 全員がひとつずつ持ったクラッカーを構えつつ、部室のドアを半円形に囲むように立った。 足音がドアの前で止まる。 ガチャリと音を立てて、ノブが回り、ドアが開いた。それが合図だった。 誰が最初だったか、誰が最後だったかも判らない。六つのクラッカーが弾け、色とりどりの紙テープが、今部室に入って来た人物にふりそそぐ。 「な――」 「橘さん」 『不動峰へ、ようこそ!』 橘さんは目を見張って、俺たちをひとりずつ、ゆっくりと見回す。 それから驚くほど優しく、柔らかく微笑みながら、自分の頭や肩につもった紙テープを掃った。 「なんなんだ、お前ら、突然」 「なんなんだ、と聞かれると、困るんですけど」 「なんか、その、俺たち、橘さんがウチに来てくれて、本当に嬉しくて」 「でもちゃんとお祝いとかする小遣い、無いですし」 「ちょっとでも何かできないかなあ、と思ってみたんですけど」 「や、やっぱり、転入してきて一ヶ月以上も過ぎてるのに、おかしいッスかね」 これは俺たちにできるささやかな歓迎会。 くだらなくても、無駄でも、ごくささやかにしかできなくても――感謝の想いを、ほんの少しでも伝えたかったんだ。この人に。 だから、 「……ありがとよ」 橘さんがそうして、照れくさそうに笑ってくれるのが、何より嬉しかった。 |