天気予報

 昨日の天気予報では、「明日の天気は一日雨です」と言っていた。
 ならばたまには練習を休んで、軽いミーティングで終わらせようかと提案する直前、
「じゃあ明日、もし本当に雨だったら、皆でビデオ見ませんか? 大会のビデオ、手に入れたんですよ」
 と桜井が言った。
 上手い選手の試合を見るのはそれだけでも参考になる。皆で試合の考察をすると言うのならば、更に勉強になるだろう。
「それはいいかもしれないな」
「橘さんが言うなら、そうですね!」
「じゃあテレビとビデオの貸出し、担任に頼んでおきますから、明日放課後俺の教室に集まるって事で」
 桜井は、気の回るしっかりしたヤツだ。
 言い出しっぺである事も手伝って、本来ならば部長であり先輩である俺がやるべきだろう事を先回りして言い出してくれた事が頼もしく、俺は桜井を全面的に信頼して、全てを任せてしまった。
 俺はすっかり、油断をしていたのかも、しれない。
「俺は明日掃除当番と日直が重なっているからな、少し遅れると思うから、先に見はじめていてくれ」
 何も考えずにそう言って、その日の練習を終わらせてしまった。

 仕事を全て終わらせて、階段を一階ぶん昇ると、生徒はほとんど下校あるいは部活に出ており、静まり返っていた。
 ひとつだけ電気のついた教室。かすかに聞こえてくる複数人の声。
 記憶していた桜井のクラスにそんな様子が見えたため、俺はためらいもなく教室のドアを開ける。
『うらぁ!』
 その瞬間、かすかに記憶に残る声が、俺の耳に飛び込んで来た。
 かすかに記憶に残る、と言うのは間違っているだろうか。記録媒体を通したために妙な音程のズレが生じているため、その声はけして聞き慣れていないのだが――間違いなく、毎日聞いている。
 俺の、声だ。
「な……」
 大会のビデオと聞いていたから、プロの大会のものだと思っていたが……全国大会だったの、か?
「あ、橘さん!」
「すみません橘さん、お言葉に甘えて、先に見ちゃってます!」
「うわー、スッゲー!」
 戸惑っていた俺は、内村の声に反応して再びテレビを見る。
 見逃したシーンが、ちょうどリプレイされる。21インチのテレビの中の俺が、勝ち誇った笑みを浮かべながら、相手コートにスマッシュを叩きこむところだ。
「スゲー、カッコイー!」
「橘さん橘さん、見てくださいよこの選手! あ、今、『今大会注目の選手』ってトコ、見てるんですけどね、さっき手塚さんとか真田さんとかも映ってましたよ!」
「跡部のヤロウとかな!」
「どうでもいいじゃんそんなヤツ……」
「もーすごいんですよこの人、攻撃的なプレイスタイルとか、スマッシュのフォームとか、橘さんにそっくりなんです!」
 そりゃ、そうだろう。
 似てるんじゃない。そいつが俺なんだ。
 ……そう言えば俺は、九州に居た頃全国大会に出ていた事などを、こいつらには全く話していなかったな。隠していたと言うわけでなく、話す必要をあまり感じなかったし、何より忘れていたためなんだが。
 だから気付いていない、のか?
「なんか顔とか声もどことなく橘さんに似てますよねー」
 似てると言うか、同じなんだ。髪型が全く違うとは言え。
「この人九州代表らしいですし」
「キ、ッ、ペ、イ、タ、チ、バ、ナ……名前も同じですね! 九州って橘とか桔平とかって名前、多いんですか?」
 嬉しそうに笑いながら、俺を見上げてくる(石田も座っているために俺を見上げている)十二個の瞳。
 東京に転校してきてから、これほどのプレッシャーを受けたのははじめてだ。
「それは……黙っていた俺への嫌がらせか?」
『へ?』
「悪かった」
 俺は荷物を床に置くと、頭を下げた。
 三秒ほど、沈黙。再生されているビデオから流れる音だけが、教室の中を支配する(その半分が俺の声だってのがこそばゆい)。
 それから、六つの椅子を引きずる音。
「どうしたんですか、突然!」
「頭、上げてくださいよ橘さん!」
「な、なんで橘さんが謝るんですか!」
「橘さんは何も悪くありません!」
「むしろいつも迷惑かけてるの、俺たちだし!」
「俺たちが橘さんに嫌がらせするわけがないじゃないですか」
 ……?
「いや、だが」
『はい?』
「そいつが俺だって事、気付いてるんだろう?」
 俺はゆっくりと、テレビを指差す。
 俺の指につられるように、やつらは、ゆっくりと視線を俺からテレビに移す。
 少し伸ばした金の髪をなびかせて、サービスエースを決める俺を最後に、映像は次の選手に移った(立海大附属の柳だった)。
 いち早く反応した神尾が、リモコンを手にとってビデオテープを巻き戻す。
 ふたたび去年の俺がテレビに映る――頼む、神尾。勘弁してくれ。恥ずかしいんだ。
「この人が、橘さん、なんですか?」
「……は?」
 再び教室内には沈黙が呼び込まれたが、ほんの一瞬。
「マジで!?」
「全然違うじゃないですか! 髪型とか!」
「ホントにホントに、橘さんなんですか!?」
 ……本当に、気付いてなかった、のか?
 髪型とウェア以外、まるで同じだろうが。
「凄い凄いと思ってましたけど、橘さん、ホント凄い人だったんですね!」
『かっけー!』
 神尾が、内村が、深司が、石田が、桜井が、元通り席について食い入るようにテレビを見る。
 ひとり立ったままの森は、近くの椅子をひとつ引いて、俺に目配せしてきた。
「橘さん、座ってください。それから大会の話、いろいろ聞かせてくださいよ!」
「あ、あ」
「うわ、やっぱスゲーな橘さん。俺こんなん絶対返せねーよ」
 楽しそうに、それでいて真剣に、九州時代の俺を見ながら皆は盛り上がる。
 けして長くない俺の出番が終わると、ビデオテープを巻き戻し、俺が登場したところから再生する事を繰り返す。
 沢山の優秀な選手が居る中で、俺だけを何度も、何度も。
 それはとても気恥ずかしい事ではあったが、素直な気持ちを言ってしまえば、とても嬉しい事だ。
「……すまん」
 謝罪の言葉が、無意識に口をついた。
 皆はほぼ同時に俺に振り返り、首を傾げ、そして何事もなかったかのようにまたテレビにかじりつく。
「ありがとう」と、俺は口の中でだけ呟く。
 そして。
「天気予報では確か、明日は快晴だったな」
『はい?』
「今日の分を取り返すくらいに、力尽きるまで練習するか」
『はい!』


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