四年と二ヶ月と十五日前の自分は、自分の気持ちを上手く伝えるどころか、整理をつける事すらできなかった。 そして、四年と二ヶ月と十五日たった今でさえ、未だに引きずり続けるこの想いを、上手く言葉にする事はできないだろう。 「『どうしてあの時何も言わずに去ったんだ』と聞きたいか?」 かつてジュニア界では無敵を誇るペアを組んでいた相手が、何かを言いたげな瞳で、俺を僅かに見下ろしていた。 貞治が口を開こうとしたのとほぼ同時に、俺が先読みして紡いだ問いに間違いはなかったらしい――貞治がこの問いを俺に投げかけてくるのはごく当然の事なのだから、読めたところで自慢にもなりはしないが。 「『答えたくない』と思っているか?」 「……」 「『しかし自分には答える義務がある』とも思っているな。そう言うところは、お前は潔い」 その通りだと答えてやる気にもならず、俺は無言で肯定を示した。 やれやれ。この男にデータを教えたのは誰だ、と問いただしたい気分だな。紛れもなく自分自身だと判っていても。 後悔をするつもりは、今でもないが。 「ダブルスを組み、共に戦っていた日々の気持ちを、お前は覚えているか?」 「多少は」 「多少か」 「お前が転校して二度とクラブに来ないとコーチに聞かされた日の気持ちの方が、より鮮明に残っていてね。どうやら俺はなかなかに繊細で、お前に黙って立ち去られた事にだいぶ傷付いたらしい」 言いながら、自分でもおかしいと思ったのか、貞治は薄く微笑む。 俺も小さく微笑み返しながら、「それならば良かった」と思わず口をつきそうになった言葉を飲み込んだ。 「あの日々をお前は楽しんでいただろう。心の底から」 「……お前は楽しくなかったのか?」 「そうではない。とても楽しかった」 ただ、あの日。 疲れきった体をコートの中に横たわらせ、貞治と並んで空を見上げたあの瞬間。 ふいに感じたものは、満たされていたものを食い尽くすように、強烈に、俺を襲ったものは――そう、飢えだ。 「だが、お前とはじめて戦った時に勝る昂揚感を得た事はなかった。頂点に立ち、広い世界に出られる『いつか』を夢見るよりも、誰よりもそばに居た強敵と戦う事の方が楽しかった」 俺は貞治の、厚いレンズの奥に隠された目を見上げる。 「それがお前の問いへの答えだ」 「……答えになっているか?」 「なっていないかもしれんな。だが、これ以上に上手く答えられる気がしない」 四年と二ヶ月と十五日ぶん成長した頭をもってしても、俺はあの時の気持ちを上手く言葉にできそうにない。 はじめは言うつもりだった。転校する事も、テニスクラブをやめる事も。 だが幼心にも、別れを告げれば貞治が悲しむだろうとは判っていた。悲しい気持ちを抱えながらテニスをする貞治を見たくなかった。 別れを告げるのは最後の日にしようと決めたのは、そんな理由だったはず。 そして最後の日にすら、別れを告げられなかったのは。 「お前があの日、別れの言葉を口にしていたら、俺はお前を引き止めただろう。転校と言っても電車に乗ればそう遠く無い距離だ。同じクラブに通い続けるのは、不可能ではなかった」 「そうだろう」 「親が駄目だと言うのなら、代わりに約束を交わしただろうな。いつかまたダブルスを組んで、ふたりで世界を狙おうと」 「そうか」 「そうしたら、今日この日は来なかった」 ゆっくりと吐き出された貞治の声は、耳から入って脳に伝わるまでに、随分と時間を必要とした。ガサガサと風に揺らされた葉のこすれる音が、俺を急かしているかのようだった。 「……そう言う事か? 教授」 ああ。 「そう言う事だ、博士」 幼い日の呼び名を口にし、幼い日の思い出を呼び戻しても、俺たちはもうあの日には帰れない。 俺たちは二度と、共に戦う事はないだろう。 そんな完全なる決別と、微かで強固な繋がりを、俺は求めていたに違いない。 「いい試合だった。四年と二ヶ月と十五日待ち続けた甲斐のある、緊迫したゲームを楽しめた」 最後にそれだけ言うと、貞治は強く頷いて、右手を差し出してくる。 固い握手を交わし、どちらからともなく手を離すと、俺は貞治に背を向けて歩き出す。俺が今居るべき場所に向けて。 三秒後、貞治もまた、俺に背を向けて今居るべき場所へと歩き出すだろう。 靴が地面を蹴る音に、予測が間違いなかった事を知り、俺は口の端を僅かに吊り上げて笑った。 |