挨拶

「おはよう」
「? おはよう」
 大石は戸惑いながらも、俺の挨拶に返してくれた。
 今の時刻は朝の十時より少し前。おはよう、と言う挨拶が充分許される時間帯だ。
 それなのに大石が戸惑ったのは、今日(日曜日だ)の練習は朝八時にテニスコート集合で、俺が部室に到着した午前七時四十一分、すでに朝の挨拶を交わしていたからだろう。
「なんだ、どうしたんだ? いきなり」
「いや、そもそも挨拶と言うものは何のために存在するんだろうと思ってね。おはよう、こんにちは、こんばんは。言葉自体には大した意味はない。いや、事の起源には何かしら意味があるものだが、現代人がこのあいさつの語源を知っているかと言えば、九十パーセント以上の確率で、知らないだろう? つまりこの俺たちが今交わした挨拶は無意味である、と言う事だ」
「そりゃ、練習の途中に朝の挨拶は、お前の言う通り完全に無意味だけど――」
「次、大石!」
「はい!」
 桃城のボレー練習が終わり、最初に決めた順番では次は大石。球出しは竜崎先生で、いつもの通り厳しい声音で、彼女は大石の名前を呼ぶ。
 大石はコートに向けて歩く途中、一瞬だけ降り返って、微笑みながら、
「言葉自体に意味がなくても、気持ちの問題じゃないか? 朝会って最初に、おはようって言ってもらえたら、気持ちいいだろ?」
 爽やかで実に大石らしい返答を、俺にくれた。練習だからと会話を途中で投げ出したりしないところも、実に大石らしいと言えるだろう。
 それにしても。
 気持ちの問題、か。
「感情論が嫌なら、統計学だと思えばいいんじゃないかな」
 俺が考え込んでいるように見えたのだろうか(事実、考え込んでいたのだが)。さっきまで別のコートで練習をしていた不二は、汗でタオルを拭きながら俺の近くに寄ってきた。
「聞いていたのか」
「ちょっと前からね」
 不二はフェンスに寄りかかり、ほんの数秒だけ、静かに練習風景を眺める。
「朝の挨拶を交わす事で気分が良いか悪いか、って言うのは、個人的な感情でしかないよね。これは、乾の苦手とする領域だ」
「違いない。お前や大石の得意分野だな」
「それを乾の得意分野に持ち込むなら、多くの人に聞いてみればいいんだよ。朝の挨拶を交わすと気分が良くなるか。良くなると答えた確率が何パーセントになるか判らないけど、割と高いだろうね。つまり、おはようって言葉には人間関係を円滑にする力があるって事だ」
「なるほど。確かにそうだな」
 微笑む不二に、俺は頷いた。
 不二に習うように、フェンスに寄りかかり、高い青い空を見上げる。
 以前もコートから、空を見上げた時があった。あの時はフェンスに寄りかかってではなく、コートの中に寝転がってだが。
 あの時の自分が、どんな気持ちだったのか。思い出す事は容易い。
 容易いが。
「さようなら」
「……え?」
「別れの言葉には、どんな力があるんだろうな」
 俺の呟きは、独り言で、つまりは自分への問いだった。
 不二もそれは判っていただろう。しかし突然何かを思い立ったように、言う。
「解放、かな」
「解放?」
「なんとなく、感覚的にだけどね……それこそ、乾の不得意分野か」
「……いや」
 俺が微笑む不二の言葉を否定すると、不二の微笑みは、僅かに固まる。
「それはなんとなく、判る気がするよ」
 だから俺はまだ。
 あの日に捕らわれているのだろうか。


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