幼い頃の思い出

 突然コツンと、後頭部に僅かな衝撃。
 衝撃と言うか、ちくりと刺さるような痛みと言うか。
「あ、ワリ、サエ」
 頭をさすりながら振り返ると同時に、すぐそこに座っているバネの謝罪の声。それから、何か軽いものがカサリと落ちる音。
 足元を見下ろせば、わら半紙で作られた紙飛行機が転がっていた。
 ふむふむ。状況から判断するに、これを飛ばして俺の後頭部にぶつけたのは、バネって事かな。
「部室の中でこんなもの飛ばすなよ。誰かにぶつかって当然だろ」
「だから悪かったって」
 俺はかがみこんで、紙飛行機を拾い上げた。
 どうやらまっさらなわら半紙じゃないらしく、赤ペンでマルとかバツとかがついている様子が透けて見える。
 この時期、それにこの紙の大きさ。
「この間の英単語テスト?」
「おう。よく判ったな」
「同じの受けてるから、なんとなくね」
 でも、それを紙飛行機にして飛ばすなんて、どう言う事だろう?
 興味を持って紙飛行機を広げてみれば。
「うわっ、見るなよ!」
 よっぽど見られたくなかったのか、バネは慌てて俺から奪い返そうとしたけれど、俺はひょいと軽く避けてみた。
「人にぶつけておいて、見るなってのは、ずるいんじゃないか?」
 バネは反論できないようで、抵抗する意向を示さなくなった。
 不機嫌そうに背けられた顔を眺めて、何だか勝ち誇った気分になった俺は、笑いをかみ殺しながら広げた英単語テストに目をやって。
 ……こりゃ、酷いな。
 マルよりもバツの方がずっと多いじゃないか。
 普通の定期テストならともかく、新しいレッスンに入る度に行われる、ごく簡単な単語テスト。範囲は次のレッスンの新単語に限られてるからすごく狭くて、クラスの半分が満点をとるようなヤツ。
 授業の前の休み時間に教科書に目を通すだけでも、けっこうな点がとれると思うんだけどなあ。
「こんなに酷いとは予想外だった」
「ほっとけ」
「この単語テストって五十点以下再テストじゃなかったっけ?」
「ああ、明日だってよ。学年で俺ひとり」
 ……だろうなあ。
 どうやったら五十点以下がとれるのか、そのコツを聞きたいくらいだ(バネだって今まで再テスト受けた事ないだろうし)。
「こんなんじゃ紙飛行機にして、飛ばしたくなるかもね」
「だろ?」
「でも、二メートルも飛ばずに墜落。紙飛行機の燃料は点数なのかな?」
「……ホント、言いたい放題だな、お前」
「バネのせいで俺の脳細胞がいくつか死んだだろうからなあ。その慰謝料とでも思ってくれれば」
 俺はバネの隣の椅子に座って、テストをいったん綺麗に広げてから、再び紙飛行機を折りはじめた。
 バネはじっと、俺の手元を眺めている。
 ああ、そう言えば。
 小さい頃もこうだったっけね。
「いっつも、お前の紙飛行機が一番遠くまで飛んでたよな」
「そうだったっけね」
「ああ。忘れもしねーよ。紙飛行機だけは絶対にお前に勝てなくて、すっげー悔しかったから」
 それは、バネの折り方が雑で、しかも何度「よく飛ぶ紙飛行機の折り方」を教えても覚えなくて、適当に折ってたからだと思うんだけど。
 俺は薄く微笑みながら、折り終えた紙飛行機を飛ばす。
 それは空気に運ばれるように静かに飛んでいき、開け放たれた窓の向こうに姿を消した。
「さっすが」
 ぱちぱちぱち、と鳴り響く、拍手の音。
 それが俺のかすかな記憶を、鮮明に呼び起こす。
「……俺も、悔しかったけどね」
「何が」
「なんでもかんでも。どうしても、バネには勝てなかったからさ」
 技術とか戦略なんて言葉は当然ながら、存在も理解していなかった、身体能力だけがすべてだったあの頃。
 自分より一回り体が大きくて運動神経のいいこいつに、敵うわけもなく。
「お前のがぜんぜん頭良かったじゃんか」
「小さい頃は勉強ができたって自慢にならなかったろ。どこまで泳げたとか、魚何匹釣れたとか、逆上がりが何回できたとか、そう言う事だけ」
「そう言や、そっか」
 だから。
 一枚の紙切れを、バネよりも、誰よりも遠くに飛ばせた時の自分が何よりも輝いて見えて、誇らしかったっけ。
 懐かしいなあ。
 俺は自然と沸きあがる微笑みを隠す事もせず、ただ、静かに目を伏せた。
 窓から入りこんでくる緩やかな風の音に耳を傾けながら、共有できる友人と共に思い出に浸る。
 そう言うのも、たまには悪くない……かな。
「ひゃはははははははは!」
 そんな穏やかな時間を引き裂いたのは、奇声とも取れる笑い声。
「サエさーん! サエさん、居る!? 見てこれ、見れこれ!」
 力一杯部室のドアを空けて、剣太郎が駆け込んできた。
「あ、バネさんも居たんだ! いやさあ、今紙飛行機が飛んできてボクの頭にぶつかってさあ、何かと思って見てみたら、バネさんのテストなの! 何コレ! 何!? 三十点って何!? ありえない! あはははは!」
「んなっ……!」
 剣太郎の手に握られた、元紙飛行機を、バネは即座に奪い返す。
 なおも笑い続ける剣太郎の頭に、拳骨ひとつ(それでも、剣太郎の笑いは止まらなかった)。
 それから振り返って、テストを握り締めた拳をふるわせつつ、俺をひと睨み。
「お前、コレ、狙ってたろ……!?」
「酷いな。不可抗力だよ」
 俺はできうる限りの、最高の笑顔で返してやった。


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