満面の笑み

 太陽がほとんど真上に昇る頃、午前中の試合が終わって、俺たちは昼飯の準備に入った。
 全員が座れる広い場所をようやく見つけると腰をおろして、弁当の包みを広げる。
「ダビ、お前、今日の昼飯なんだ?」
「トンカツ。トンカツ食べて試合に勝つ……プッ」
 立ち上がってこいつの後頭部を蹴り飛ばしてやろうかとも思ったんだが。
 そもそも問題はそんなダジャレじみた縁起担ぎをするダビの母親だし、何より立ち上がるのが面倒だったもんで、俺は裏拳でこめかみを殴るだけで勘弁してやった。
 痛がるダビを放置して、パカッと弁当のふたを開けると。
「あ、俺今日コロッケだ」
 うめいていたダビデはいきなり立ち直り、笑顔で表情を明るくした。
「バネさんちの、コロッケ!」
 ダビデはなぜかうちのコロッケが好きだ。
 しかも、クリームコロッケでもただのポテトコロッケでもなく、カレーコロッケが一番好きらしい。ガキの味覚だな。
「ひとつとりかえてやろうか?」
「うい」
「そのかしソース半分よこせ」
「……?」
 ダビが首を傾げて、俺をじっと見る。
 まあ、そうだよな。疑問に思うよな、普通。
 弁当のおかずのメインがコロッケなのに、ソースが入ってない何て事、まずありえねーからな。
 ったく、おふくろのやつ、よりによってなんでソース忘れんだよ。隅っこのサラダ用のマヨネーズなんて忘れていいっつうの。
「はい、バネさん」
 ダビの弁当にはふたつばかしソースとか醤油とか入れる小さい容器が入ってて(おかず見る限りソースとしょうゆどっちも必要そうだ)、ダビはその片方のフタを開けると、俺に差し出してきた。
「本当にそっち、ソースか?」
「そーっす」
 後悔先に立たず。
 反射的に俺はダビをぶん殴っていて、そのダメージで揺らいだダビは、手に持っていたソースの容器を、地面に転がしちまう。
「あ!」
 コロッケとトンカツを賄うはずだったそのソースは、空しく地面に吸い込まれていった。
「……」
 俺とダビは、しばらくほとんど空になったソースを眺めていたけれども、そんな事をしていてもなんにもならないと気付き、きょろきょろと他の連中がソースを持っていないかを探す。
 あ、サエ、今日の弁当エビフライだ!
「おい、サエ!」
「悪い。うち、エビフライはタルタルソース派なんだ」
 サエはにっこり笑うと、タルタルソースのタップリついたエビフライにかぶりつく。
 くそ……サエは駄目か。
 俺は他にソース使いそうなおかずの奴を探してはみたんだが、見当たらないか、すでに使っちまった奴ばかりだった。
「剣太郎!」
 諦めるしかない。そう俺が思いはじめた時、ダビが剣太郎の名前を呼ぶ。
「え!? ボクのお弁当のどこにソースが必要なのさ!」
「目玉焼き……」
「目玉焼きはショーユにきまってるよ!」
「え? そうなの?」
「塩胡椒だろ?」
「あー、お弁当の時はそうかも」
「いや、普段からだよ」
「俺はケチャップなのね」
「なんだケチャップって!」
 そこからしばらく、六角中メンバー総出で目玉焼きには何をかけるかでもめ(ちなみに俺は、一番人気の醤油派だった)。
 そんな事でもめてる暇は無いんだと気付いたのは、二分くらいしてからの事。
「しゃーねえダビ! 会場の入口近くにコンビニあっただろ、あそこでソース、買ってこい!」
「……なんで俺?」
「お前がくだらねえ事言うから、こうなったんだろ」
「じゃああんな激しいツッコミしなけりゃいいのに……」
 ぶつぶつ言いつつも、なんだかんだで素直なダビは弁当箱のふたを閉めて立ち上がった。周りを見回してから、会場の入口がどっちの方向かを思い出したようで、そっちに向けて歩き出す。
「男らしく何もかけずに食べるって選択肢はないのか?」
 二本目のエビフライをひとくちだけかじって、サエは俺にそう聞いてきた。
「これっぽっちもねえな! ソースかけずにトンカツやコロッケ食うのが男だってなら、俺は男じゃなくていい!」
「……ふうん」
 サエは一瞬、呆れた目で俺を見て、目を反らす。
「あ」
「どうした?」
「ダビデの財布」
 サエが指差すトコロには確かに、ダビデの安くて使い古された黒いサイフが落ちていた。
 ったく。
「どうやってソース買うんだ、あのバカ!」
 俺はダビデのサイフを拾うと、ダビデが立ち去った方向に走り出した。

 そんなに走ってはいない。ほんの一分くらいだ。
 木と草の緑ばかりの場所に、黒いカタマリができていて、そこにぽつんと赤が混じっていたから、死ぬほど目立ってた。
 黒いウェア(ジャージ)の集団が、俺たちと同じように適当な場所で飯を食っていて、そこに赤いジャージのダビが混ざっていたわけなんだが。
 何してんだ、あいつ。
 俺は近くの木に隠れるようにして、黒い集団とダビデを見守る。
「お前は確か、六角中の……天根、だったか?」
 ダビデはこくんと頷いた。
 そう言う、黒い集団の真ん中に居る男は、去年九州二強と呼ばれていた、橘。
 なんでダビが不動峰の中に居るんだよ。ほとんど面識もないくせに。
「六角中がどうしてこんなトコに居んだよ! 言っとくけどな、橘さんの弁当はひとくちたりともやらねえぜ!」
「別にいらない。コロッケあるし」
 いや、お前の弁当はトンカツで、コロッケは俺んだぞ。
「それよりそれ、貸してほしい」
 ダビデが指差した方向にあるのは――ソースだった。
 ほとんど見知らぬ人間にソースを借りようとするダビデもどうかと思うけども(きっとサイフがない事に気付いたとたんに連中を発見して寄ってったんだろう)。
 ソース一本普通に持ってきてる不動峰ってのは、一体どう言う集団なんだ? しかも弁当、それぞれに持ってきてるわけじゃねえみてーだし。
「ん? ソースか?」
「そーっす……プッ」
 この馬鹿、同じネタ、使いやがって……!!
 でも俺は隠れている立場だから、ツッコミに飛び出すわけにもいかない。不動峰の連中がツッコんでくれるのを待つだけだ。
 けれど、他の連中は冷たい目か驚いた目でダビデを見ているだけで、言われた本人にいたっては、
「何かおかしかったか?」
 ダビのダジャレ、気付いてねえし!
 ツッコんでもらえなかったダビデはあからさまに落ち込んで、差し出されるソースを受け取る。
 しゃがみこんだ姿勢でそのまましばらく動かなかったかと思うと、急に顔を上げて、すぐそばに居た鬼太郎みたいな奴(さっき弁当はやらねえとか騒いでた奴だな)の腕を掴むと、ズカズカと歩き出した。
「うわっ!」
 ダビデは、俺が隠れていた木の横を通りすぎて、もう一本先の木のところで鬼太郎を手放す。
「なんなんだお前!」
「なんだは、こっちの、台詞!」
 怒っていた鬼太郎は(まあ当然怒るよな)、逆ギレ(としか思えないだろ)するダビに驚いて、言葉を失ったようだった。
「ボケにツッコまないなんて……犯罪だ!」
「はあ?」
「バネさんなら絶対、どんな事があっても、ツッコんでくれるのに、なんだあのひと! 最低だ!」
 いや。
 わざわざ人ひとり引きずってきてまで、そんな苦情言うなよ、ダビ。
「オイ。橘さんの事悪く言う奴は、誰が許してもこの神尾アキラが許さねえぜ!」
 鬼太郎の名前はどうやら神尾らしい。
「試合会場でちょっと見たことがあるかもしれねえくらいの、ギリギリ名前を知っているくらいのお前にソース貸してやった男気溢れる橘さんによくそんな事が言えたもんだな」
「だから本人には文句言わなかった!」
 ダビデ、お前、少しは義理人情ってものが判る奴だったんだな(色々間違っている気もするけどな)。
「それに、男気溢れてるなら、バネさんだってそう」
 ダビ、お前……。
「誰だバネさんって」
「バネさんはバネさん。俺にコロッケ分けてくれるひと」
 って、他にないのかよ! それのどこが男気溢れてるんだよ!
「コロッケだけかよ。ケチくせえな。お前さっきの弁当見ただろ? あれ、全部橘さんが作ってくれたんだぜ。俺たち皆で食べようってな。美味いんだぜ?」
「バ……バネさんちのコロッケのが美味い。って言うか、バネさんが自分のぶんを分けてくれるから、美味しい」
 いや、交換だからな、交換。ただ分けるんじゃねーぞダビ。
「大体な、あんなサムいダジャレ、誰だって放置するつうの! 呆れてものも言えねえってやつだろ」
 橘の場合、ダジャレに気付いていなかった確率が高かったと思うんだが、まあ、そこはスルーしてやろう。俺は男気溢れるバネさんだからな。
 さて、無類のダジャレ好き、ダジャレ帝王は、なんて反論するかな。「サムくない!」ってムキになるか、あるいは……。
「その通り」
 え?
 今、なんつった? ダビ。
「俺のダジャレはサムくないけど」
 いやサムいからな、充分。
「でも、みんな呆れて俺のダジャレ、放置する。けど、バネさんだけは、ちゃんと俺のダジャレ、ひとつも聞き逃さずに、ツッコミ入れてくれる。ちょっと乱暴だけど、すごく優しい」
 ダビは借りたソースを握りつぶしちまうんじゃないかってくらいに、手には思いっきり力を込める。
 けれどそれとは対象的に、ビックリするくらい穏やかな笑顔で、静かにそう言いやがった。
 俺は驚いて、でも、ダビデの目の前に居る神尾はもっと驚いたようで、きまり悪そうに頬をかくと、ダビデから顔を背けた。
「橘さんだってな、厳しくて怖そうに見えるけど、アホな俺らかばって、でも気にするなって笑ってくれるどころか、俺たちの事ばっか心配してくれる、すげー優しいひとなんだぞ」
 幼稚園児レベルの言い争いは、そこで終わった。
 ふたりの間には気まずい沈黙。お互いに目も合わせようとしやがらねえ。
 俺がふたりの間に入れば、空気は変わって何とかなるのかもしれないけれど、今出ていってはいけないような気が、なんとなくした。
「殴り合いの喧嘩でもはじめそうな雰囲気だったが、そうでもなさそうだな」
 !
 いつの間に近付いてやがったんだ、こいつ。
 って、後輩がいきなり他校生に拉致られたら、そりゃ心配で確かめにくるか。後輩に慕われる「優しい橘さん」なら、尚更。
「橘」
「すまん。驚かせたか」
 ダビデにも神尾にも聞こえないくらいの小さい声で橘は言う。
 ふたりに注がれる視線はとても優しくて、嬉しそうな笑顔を浮かべて。
「すげー嬉しそうだな、橘」
「ひとの事が言えるのか?」
 言われて俺は、自分の顔に手をやった。
 鏡なんて手元には無くて、変わりになるようなものは水たまりひとつ、この近くにはないけれども。
 きっと俺は今、無意識に、満面の笑みを浮かべているんだろう。
「……ソース」
「?」
「使い終わったら、ちゃんと返しにこいよ」
「うい!」
「おっと、じゃあな橘、世話になった」
 ダビデが動き出す前に俺は、小さく橘に手を振って、ダビデとは逆方向へと走り出した。
 こっちからでは少し遠回りになる。けれど、ダビに気付かれないように、ダビよりも先に、元の場所に戻っちまいたかった。
 まるで何ごともなかったように、な。


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