時計を見ると、二本の針は午前十時半を示していた。 窓の外を覗いてみれば、ちらほらと雲の姿が確認できるが、充分に晴れと言える天気。 そんな日曜日に、特に何をしようとも考え付かず、俺はリビングのソファに座ってぼんやりとテレビを見ていた。 ……暇だな。 と、内心思っている事が筒抜けだったのだろうか。 「お兄ちゃん、暇そうね」 背後から杏の声がかかる。振り返らなくとも、杏が笑っているだろう事は声音と気配で判った。 「今日は練習無いの?」 「ああ、たまにはゆっくり休んだ方がいいと思ってな。休みにした」 そこで杏は、ため息をひとつ。 「それで時間を持て余しているわけだ。ほんと、お兄ちゃんってテニス馬鹿ね」 「誉め言葉としてもらっておこう」 杏の言葉を否定する事はできそうにも無かったので、俺はそう返すしかなかった。 テニス馬鹿。まったくその通りなのだろうな。 たまの休みに何をしようか、考えつかないとは。 「お昼ご飯でも作れば? 色々凝って時間かけてみるとか」 「しかしお前は出かけるんだろう?」 「うん。だから昼からお兄ちゃんひとり」 人に食べてもらわなければ意味が無いと言うつもりはないが、しかし自分のためだけに作る料理と言うのは張り合いがない。それなのに時間をかけて丁寧に作るのも、どうか。 「止めておこ……」 会話を引き裂くように鳴り響く電話の呼び出し音。 たまたま電話のそばに居た杏が受話器を取る。 「はい、橘です」 それと同時に鳴る、インターホンの音。 ボディランゲージで「お兄ちゃん、出て!」と杏は懸命に示していたが、そんな事をしなくても出るぞ、俺は。 「はい」 『神尾です! 橘さん居ますか!?』 「……ちょっと待ってろ」 橘さんならうちに何人でも(今現在はふたりだが)居るぞと注意してやってもよかったんだが、それ以上にわざわざうちに訪ねてきた理由が気になり、俺は玄関の扉を開いて直接神尾と対面する。 そこに居たのはラケットバッグを肩に引っ掛けている神尾……だけではなかった。 「神尾に深司。おはよう、どうした?」 「おはようございます、橘さん!」 「おはようございます」 毎日毎日練習で顔をつきあわせてるのに、たまの休みまで一緒なんて、仲がいいんだな、こいつら。 「あの、暇だから深司とストリートテニス場にでも行こうかって話になって、それで橘さんちの前通りかかったんで、橘さんはどうしてるかなーってちょっと思って来ちゃったんです。朝からすみません!」 「だから言っただろ日曜日の朝っぱらから事前連絡も無しに訪ねるなんて迷惑極まりないってさ。非常識過ぎるよね……人間性を疑うよ」 「お前の人間性のが疑わしいっつーの!」 「いや、別に構わないんだが」 おはようと挨拶はしたものの、けして早すぎる時間ではないからな。別に訪ねられても困るわけではないのだが……玄関先で騒ぐのは少し、迷惑かもしれん。俺は構わないが、近所迷惑になるからな。 それにしてもこいつら。 せっかくの休みにまでテニスしようってのか、まったく。 杏は俺の事をテニス馬鹿と称したが、ここに俺以上の馬鹿が居るんじゃないか? いや。俺と同じくらい、に訂正しておくか。 「俺も行っていいか?」 『へ?』 「俺も暇を持て余していてな。もしよければ俺もテニスがしたいと思うんだが」 神尾と深司は一瞬目を見開き、それから顔を見合わせ、 「はい、もちろん! 橘さんと一緒にテニスできるなら、俺も嬉しいです!」 「よろしくお願いします」 神尾は何度も繰り返し、深司は深く一度だけ、頷いてくれた。 「待っていてくれ。ラケット取ってく……」 「あ、神尾くんに深司くんじゃない! どうしたの?」 バタバタバタと、乱暴な足音と高い声が、家の中から玄関に近付いてくる。もちろんその主は、杏以外にはありえない(電話はいつの間にか終わっているらしい)。 そう言えば杏は、十一時に待ち合わせをしているとか言っていたか。確かにそろそろ家を出ないと、間に合わないな。 「これからストリートテニス場に行こうと思って、近く通ったから寄ってみたんだ」 「そうなの? じゃあ、行く前に上がって行きなよ!」 「え、でも」 「いいからいいから! そのうち桜井くんたちも来るし」 朗らかな笑顔で杏は平然と言い切ったわけだが。 「お前、これから出かけるんだろう? それなのに呼んだのか?」 「うん、今の電話桜井くんからだったんだけど、桜井くんも暇だって言ってたから、お兄ちゃんがごちそうするからみんなを誘ってお昼食べにおいでよって言っちゃった。いいじゃない、お兄ちゃんどうせ暇なんだから。みんなでご飯食べてから、みんなでテニスする。楽しいわよ! じゃあね〜!」 間に口を挟む余地も与えてはくれず、次から次へとまくしたてた杏は、ちらりと時計に視線を送ったかと思うと、慌てて靴を履いて走り去っていった。 元気だけが取柄の妹だとは思っていたが、今日はいつもより元気がありあまっている――まるで、嵐のようだった。 俺たち三人は驚いたか呆れたか、とりあえず呆然として杏の走り去った方向をしばらく見つめていた。 そんな俺たちを現実に引き戻したのは、神尾の好きそうな早いリズムの着メロだ。 「あ、桜井だ」 ディスプレイには堂々と、「桜井」の文字が浮かんでいる。 神尾は「どうしましょう」とでも言いたげに、上目使いで俺を見る。 俺はひとつ頷いて、神尾の手から携帯電話を受け取った。 「もしもし、桜井か?」 『ってえ……あれ……橘さん!?』 『橘さん? なんで神尾の電話に橘さんが出るんだ?』 どうやら電話の向こうにいるのは、桜井だけではなく、石田ものようだ。 『あの、なんか、杏ちゃんに誘われたんですけど、本当に行っていいんですか? 邪魔じゃないですか? ってもう、俺と石田は行く気満々で、内村と森にももう声、かけちゃいましたけど』 「みんな来るのか?」 『いや、橘さんが、ご迷惑なら、行きません……』 少し前まで興奮ぎみだった声が、突然弱々しく変わった。 ……いらん気を回しやがって。 「昼飯の後はテニスをするそうだ。そっちにも参加するつもりがあるなら、ラケットを忘れるな」 『はい!』 「じゃあまた後でな」 短い通話を終え、俺は電話を神尾に返す。 あの様子ではおそらく桜井は――いや、きっと四人とも、ラケットを持ってうちに来るだろう。 せっかくの休みに全員で部活の先輩の家に昼飯を食いに来て、そしてみんなでテニス、だって? まったく。 「みんな揃って、どうしようもないテニス馬鹿だな」 俺は神尾にも深司にも聞こえないように、小さく呟いた。 |