プレゼント

 もう何度目になるだろう。あの小さなため息を耳にするのは。
「……はあ」
 小柄な太一が肩を落としていると、いっそう小柄に見える。その上部室の隅っこに居られると、危うく存在を見失ってしまいそうだ。
「どうしちゃったの? 壇くんてば」
 気楽そうなうちのエースは、ようやく太一の異変に気付いたのか、俺に近付いてきてからそう聞いた。
 まあ、聞かれたところで、俺も詳しくは知らないんだけどな。
「理科の実験、あるだろ」
「うん、あるねえ」
「俺たちも一年の頃、カエルの解剖、やったじゃんか」
「ああ、やったねえ。懐かしい。カエルくんはかわいそうだけどさ、けっこう楽しかったよね、アレ」
 そうか? 楽しくはないだろ、いくらなんでも。
「それが来週あるらしいんだけどな、じゃんけんで負けて、腹をかっさばく役目を押しつけられたんだと」
「そんな事で、あんなに落ち込んでんの?」
 好みなんて人それぞれなんだから、嫌な事もやりたくない事もやっぱりひとそれぞれで、だから簡単に「そんな事で」なんて片付けていいとは思えないんだけども。
 正直言って俺も、その程度でそんなに落ち込まなくてもいいんじゃないか、とは思ったんだよな。
「俺は、席替えで酷い席を引いたって聞いたぞ」
 いつの間に現れたのか、東方が太一を見下ろしながら、ぼそりと言った。
「酷い席?」
「壇くんって教卓のまん前引いても嫌がりそうにないコなのにね。どんな酷い席なんだろ」
 教卓のまん前はさすがに太一だって嫌だろうが、まあ確かに、あそこまで落ちこんだりはしないだろうな。どっかの気楽なエースと違って。
「席は真ん中の列の、後ろから二番目」
「けっこういい席じゃん? 俺は窓際の方が好きだけどね」
「ところが、前に座ってる女子が、やたら背が高いらしい。千石くらい」
「はー、そりゃ女のコにしてみたらおっきいねー。でも、寝る時にカモフラージュになっていいじゃん」
 お前はそれでいいだろうけどな。
「黒板が見えないから凹んでるのか? でも、だったら席を替わってもらえばいいじゃないか。お前だっていつもそうやって後ろの方に追いやられてるだろ?」
「そこが太一らしいと言うかなんと言うか、その女子は普段から長身を気にしているから、『○○さんが大きくて黒板が見えません』なんて言えなかったらしいぞ」
 まったく。
 優しいって言うか、何て言うか。それで凹んでどうするんだ。
 まあ、凹んでいる理由の中には、自分の背の低さを思い知らされた事もあるんだろうな。背の低い事、けっこう気にしてる奴だから。
「俺が聞いたのとはまた別ですね」
「室町!」
 頼むから。
 怖いから、突然現れるのは止めてくれ。
「ほ、他にも何か?」
「班を作るじゃないですか」
「ああ」
「やっぱりじゃんけんで負けて、班長も押しつけられたらしくて」
「あー……」
「まあそれは本人あまり気にしてないらしいんですけど、今週の残りの三日間、半端だから、くじ引きで掃除当番を決めようって事になって、班代表でくじを引いたら、トイレ掃除を引いてしまって、班員に文句言われたそうで」
 なんて言うか、些細な事だけど。全部が全部、些細な事だけども。
 一日に集まったら、ちょっとは凹むかもしれないな、それは。
 少なくとも、俺は凹むな。東方も凹むだろうな。気楽なエースとクールな二年生は気にしなさそうだけどな。そもそもエースの方はこんな自体に陥らなそうだけどな。ラッキーだから。
「よーし、じゃあ、このラッキー千石に任せてもらおうかな」
「何をだ」
「壇くんを元気付ける事だよ。決まってるだろ?」
 決まってねえし、何より、ものすごく。
 ものすごく不安だ。
 俺はスキップで太一に近付いていこうとする千石の腕を掴み、引き止める。
「大丈夫、任せといて!」
 任せられねえから引き止めてるんだって!
 まあ、止まるわけがないんだけどな。こいつがな。
 俺にできる事があるとすれば、こいつが太一の傷を抉るような事をしないように、見張ってる事くらいだ。
「壇くん壇くん!」
「……千石先輩。南部長」
 うわ。暗。
 いつもの無邪気な笑顔はどうしたんだ、太一。
「壇くん、俺とコインゲームしない? 壇くんが勝ったら帰りがけに好きなものおごってあげるよ! その代わり俺が勝ったら、お好み焼きおごって!」
「……やめとくです」
「えー、なんで!?」
 なんでって、そんなん、俺だって嫌だぞ。お前が勝つに決まってるじゃんか。
「お金、あんまり無いです」
「お金? 何? もう負ける気なの?」
「僕、今日、六人でじゃんけんして、二回も負けたです」
「うーん、それはついてなかったなあ」
「あと、二回くじ引いて、二回悪いの引いたです」
「うん、それも、ついてなかったね!」
 千石が腰に手を当てて、大げさに頷くと、壇は暗い表情をもっと暗くして、俯いて、
「そうです。僕、すごく運が悪いです。運も実力の内です。つまり、僕には実力がないです!」
 そしてとんでもない極論を口にした。
「その理論じゃ、千石は世界一の実力者って事になるだろ! ありえねえ!」とでも返してやれば良かったのかもしれないけど、そうしたら今度は千石がうるさいだろうしな。
 うーん。
「よし、壇くん。やっぱり勝負しよう!」
 千石は、ポケットから取り出した一枚のコインを、俺に押し付けてくる。
 う、え? なんでだ?
 ってか、お、俺がやるのかよ!
「南の投げたコインが表だったら壇くんの勝ち。裏だったら、俺の勝ち。お好み焼きはいただいたよ?」
「え……千石先輩?」
 戸惑う太一もお構いなしだった。
 俺は指でコインを天井近くまではじいて、落ちてきたコインを素早く右手の甲にのせ、左手で覆い隠す。
 数秒間を置いて。
 太一からも楽に見えるような高さに手を下ろしてから、俺は左手をゆっくりとずらして、ふたりの目にコインを晒す。
「……表です」
「あちゃあ、表だねえ」
「表だな」
 あっと言う間に、コインを見下ろす太一の目に、いつもの明るさが戻っていく。
「僕にもまだ、運があるです……!」
 当初の「勝ったらおごり」なんて約束、すっかり忘れちまってるんだろうに、それでもものすごく嬉しそうに笑ってる。
 それから東方とか室町とかの方に駆けて行って、「僕、千石さんに運勝負で勝てたです!」とか、自慢をはじめた。
 東方は「よかったなあ」なんて言いながら太一の頭を撫でてやってる。兄弟……って言うか、親子みたいだ。
「で?」
「ん?」
「『壇くんにラッキーのプレゼント!』とでも言うつもりか?」
 俺がそう聞くと、千石は一瞬もったいぶってから、にかりと笑った。
「そ。もし壇くんが何かおごれってせがんできたら、カンパしてね部長さん。俺も貧乏なんだよね〜」
 何勝手な事言ってやがる。
 って、いつもならそう言い返してたんだろうけどな。今日はさすがに、そんな気にならねえか。
「しょうがねえな」
 俺はしぶしぶ答えながら、両面とも表のコインを千石に投げて返した。


100のお題
テニスの王子様
トップ