日焼け止めクリーム

 女テニの練習は、今日は無いんだろうか。
 制服姿の杏ちゃんが、フェンスごしに俺たちの練習を覗いている事に、俺は休憩に入る目前に気付いた。
 他の連中はまだ気付いていないかもしれない。少なくとも、杏ちゃんから少し離れたところで、フェンスによりかかって汗を拭いている神尾は、絶対に。
「よし、休憩に入るぞ」
 橘さんの声がかかって、顔を洗うのか、水でも飲もうってのか、神尾はコートを出ていこうとする。
 そこではじめて、杏ちゃんの存在に気付いたようだった。
「杏ちゃん!」
 さっきまでへばっていたのはどこに行ったやら、駆け足でフェンスの外に出る神尾。
 ずいぶん元気な声だな。その調子なら、休憩取らずに練習続けても、いいんじゃないか?
「お疲れさま。今日も暑いのにみんな頑張ってるね」
「ああ。なんたってもう関東大会。しかも次はあの山吹とだしな。都大会での借り、ここで返さないと!」
 口ではカッコいいこと言ってるけど。
 今の神尾じゃあ、杏ちゃんにカッコいいところを見せたいだけにしか見えないな、こりゃ。まあそれも動機のひとつとして大いにアリだと思うけど。俺は。
 俺はコートの隅に置いておいたドリンクを手にとって、水分補給をしつつ、ぼんやりそんな事を考えていた。
「やっぱり神尾くんもすごく日焼けしてるね。毎日毎日、日が暮れるまで頑張ってるからかな」
「俺わりと日に焼けやすいからなぁ。橘さんもけっこうそうだろ? この、袖のところで色が全然違うから、泳ぎに行くのちょっと恥ずかしいッスねって昨日話してたんだ」
「へー。でも、同じだけ練習してるはずなのに、深司くんとか、比較的白いよね」
 杏ちゃんが深司の名前を口にすると、ふたりは反対側のフェンスに寄りかかって座りながらスポーツドリンクを飲んでいる深司の方を見た。
「アイツ日焼けっつうより赤くなるタイプだから、大変らしいぜ。小さいころ、陽射しが強い日にずっと外に居て、水ぶくれになった事もあるって」
「うっそ。痛そ〜」
 まるで自分が体験したかのように、杏ちゃんは辛そうに顔をしかめた。
 でも確かに、練習後に赤くなったとこ冷やしてるの見てるだけで、痛そうだしな。水ぶくれなんて……良かった、俺、ごく普通に日焼けする体質で。
「耳んとことか、首の後ろとかが一番やばいらしくて……だから髪の毛で隠してんのかな? アイツ」
「それ、私に聞かれても」
「……だな」
 あはは、と照れくさそうに笑う神尾。
 杏ちゃんも神尾の笑い声に声を重ねて、笑う。
 ほんと、杏ちゃんっていいコだな。
「日焼け止めのクリームとか、使ってみたらどうかな?」
「俺も前言ってみたけど、めんどくさいってさ」
「……ものすごく深司くんらしい理由だね」
「あとで処置する方がめんどくさそうな日は使うから、一応持ち歩いてるみた……」
 神尾の声が、不自然に途切れる。
 俺はいつの間にか深司の方に向けていた視線を神尾の方に戻す。
 杏ちゃんが、大きな目を更に大きく見開いて、真っ直ぐに、神尾を見上げてた。
「あ、杏、ちゃん? 何か俺の顔、ついてる……のかな?」
 何か妙に慌ててる神尾。
 ……一体何を期待してるんだか。
 万が一、神尾が期待するような展開に、杏ちゃんが持ち込んでくれるとして。
 でも絶対に、橘さんの目に入るようなところではしないと思うけどな。
「ごめん、神尾くん。ちょっと……いいかな」
 突然杏ちゃんが、照れくさそうに神尾から視線を反らして、頬をちょっと赤く染めながら、言った。
「う……え? あ、うん」
 杏ちゃんの、やっぱり運動部に所属しているせいで日に焼けている、けど神尾に比べればずっと白い手が、そっと神尾の顔に伸びる。
 おいおいちょっとまて。どう言う展開だ、これは。
「杏ちゃん……?」
 上ずった声で、神尾は杏ちゃんの名前を呼んだ。
 杏ちゃんの指がそっと、神尾の左目を隠す前髪に触れて、それをはらうようにゆっくりと動く。
 すると。
「あ、やっぱりそうだ! 神尾くん、顔のこっちがわは、あんまり日焼けしてないんだ!」
 杏ちゃんの弾んだ声が、神尾や、傍観者である俺の緊張を、一瞬にして解す。
「……え?」
「そうだよね、ほとんど日にあたらないんだもんね。なんか、ここから肌の色が全然違ってて、おもしろい事になってるよ! ブラックジャックみたい!」
 そのたとえはどうだろう。杏ちゃん。
 と、心の中でこっそりツッコミを入れつつ、俺は神尾を見た。
 うわあ。あからさまにショック受けた顔してやがる。おもいっきり期待ハズレだったもんな。
「あ……そう。うん、今度から、気を付けてみようかな」
「うん、そうした方がいいよ――あ、そろそろ休憩終わっちゃうね。私そろそろ帰ろうっと。休憩の邪魔してごめんね」
「いや……別に……」
 大きく手を振る杏ちゃんに、神尾は力無く、小さく手を振り返す。
 諦めろ、神尾。
 無駄に期待したお前が悪いんだ。
「……はあ」
 神尾は大きくため息を吐いて、とぼとぼ、とコートの反対側にいる深司のそばに近付いていった。
「深司」
「何」
「お前の日焼け止め、貸してくれよ」
「やだ」
 ……なんか。
 俺まで切なくなってきたよ、神尾。


100のお題
テニスの王子様
トップ