樺地はとても純粋で、そこにあるものの本質をあるがままに受け入れるんだって誰かが言っていたのを、今更になって思い出す。 「十分間休憩!」 名門氷帝学園テニス部の練習は、それはそれは厳しいものだ。もっとも、他のテニス部の練習が楽だとは思わないけれど(他のテニス部に所属していた事がないから判らない)。 休憩の号令をかけて、俺はベンチに腰を降ろす。 無造作に置いておいたタオルで流れる汗を乱暴にぬぐって、そのままタオルを肩にかけると、俺はぼんやり、各々に休憩を取る百五十人ほどの部員の中に視線を泳がせる。 これでも充分過ぎるほどの部員数だけれど、やっぱり少し寂しいかな。 今年の夏の大会は、関東大会で終わってしまって、三年生の先輩方は引退していった。また次の春、新入生がごそっと入部してくるんだろうけれど、それまではこの人数でやっていく事になる(このうち何人かはテニスが嫌になって、あるいは諦めて、やめていってしまうだろう)。 跡部部長のあとを継いだのは、驚く事に、日吉じゃなくて俺だった。 宍戸さんの件で多少は緩和されたかもしれないけれど、それでもやっぱり「敗者に厳しい実力主義」の氷帝は健在で、だから関東大会で敗北を記した日吉でなく、ノーゲームになった樺地でなく、勝利を納めた俺にその職が回って来た事は、当然の事かもしれない。 でも、正直言って少し――この立場は、俺には辛いかな。 「……うす」 長い影が背後から俺に近付いてきて、低い声と共に、ドリンクが差し出される。 そこでようやく俺は、水分補給を怠っていた事を思い出した。 「ああ、わざわざありがとう、樺地」 手を伸ばして、ドリンクを受け取って。 ひんやりとしたスポーツドリンクが喉を通過すると、喉が乾いていた事を思い出す。 しばらくそこに立っていた樺地が、緩慢な動作で隣に座るのを確かめると、俺はストローから口を離した。 「樺地は相変わらずなの?」 「?」 「跡部ぶ……跡部先輩とさ。『行くぞ、樺地』『うす』ってやつ」 樺地は数秒微動だにしないで、それからこくんと小さく頷いた。 「そっか。そうだろうなあとは思ってたけどね」 そうじゃないと何て言うか、跡部先輩も樺地も、らしくないって思うし。 ふたりはそのままでいて欲しいと、俺も思うし。 「気を悪くしたらごめん」 「?」 「あの人は、とても悲しいひとだね」 俺は樺地に微笑みかけたけど、樺地は何の反応もしなかった。「うす」って答えてくる事も、首を傾げる事すらも。 「来てみて判った。ここは……とても孤独な場所だ」 ついこの間まで、俺は跡部部長のことを、恵まれすぎた人だと思っていた。他人が羨むあらゆる才能と環境の中にあって……まあ、本人を前には言えないけれど、そのせいでわがままと言うか高飛車に育ってしまったんだろうな、とか。 けど、あの人は、他人には理解できない才能と環境の中で、他人に醜態なんて晒す事もできないだろう厄介なプライドなんてものも持ち合わせて――多分俺には一生理解できない、絶望的な孤独の中に居るんだろうなと気付いた。 部長職を引き継いで、前にも、隣にも、誰も居ない事に気付いた時、ただ自分の下に多くの部員が居るだけだと気付いた時、俺はとても怖かった。 でもあの人はきっと、日常生活の中でも、同じような場所に立っている。孤独な上に、回りは敵だらけ。そんな状況で生きていくのなら、あんな性格に育たないと色々と辛かっただろうから、あの人はあれで良かったんだろう。 きっと俺だけじゃない。理解者なんてどこにも居ない――ただひとりを除いては。 「だから樺地は、あの人のそばに居るんだよね、居たいんだよね」 「……」 樺地だけが判ってくれるから。 樺地だけが下心も何もない、純粋な優しさを傾けて、側に居てくれるから。 だからあの人も、樺地にだけ、絶対な信頼を向けられるんだと思う。 ……だから。 「俺には何もできないから。そばに居る事も、従う事も。それなのにこんな事を期待するのは、とても無責任かもしれないけど……」 これからも。 これからも、あの人のそばに居てあげて。 無関係な俺がそんな事を望むのは、罪ですか。 |