天使か悪魔か

 階段のまん前にある石田のクラスの前は、部活に行く時や登下校の時、必ず通らなければならなくて。
 他のクラスはとっくに終わっているのに、なんでか静まり返ったそのクラスを、俺は通りがけにちらって覗いてみた(暑いから風通しを良くするために、ドアは開いていた)。
 すると廊下側一番後ろの席に座ってる石田とばっちり目があって、石田は口パクで何かを俺に伝えてくる。「ホームルームが長引きそうだから遅れる」って、言ってるかな?
 オッケー、と俺は無言でサインを出して、階段を降りる。
「アキラ!」
 一段降りたところで、名前を呼ばれて俺は足を止めた。
「森」
「ごめん、俺、今日日直だから、日誌書かないといけないんだ。少し遅れる。石田に伝えようと思ったんだけど、石田まだホームルーム終わってないみたいだし」
「ああ、判った」
「あと内村は掃除当番で、桜井は委員会だって」
 なんだ。皆遅れまくりだな。
 ……って。
「あれ? 内村って今週掃除当番だったか?」
 昨日までは部活一番乗りしてたじゃん、あいつ。
 俺が疑問に思って聞いてみると、森は苦笑するだけで答えなかった。
 罰当番とか、なんだろうか。何やったんだあいつ。まあいいや、あとでからかってやろ。
「じゃあな」って森に手を振って、俺は少し浮かれながら、一段飛ばしで階段を降りていった。
 あー、って事は、橘さんは今日抽選会で立海大に行くって言ってたし……比較的早くこられそうな石田か森が来るまで、深司とふたりで部活やんなきゃいけないのか。なんかブキミだなあ。まあ別にいいけどよ。

 がちょっ、と部室のドアを開けると、そこにはもう深司が居て、ほとんど着替え終えていた。
「よう深司。なんか他の四人、皆遅れるってさ。委員会の桜井以外はわりと早く来ると思うけどな」
「ふうん」
 興味もなさそうに生返事を返してきた深司は、さっさと着替えを終えて、ラケットを取り出した。
 それとほとんど同じタイミングで、がちょっ、と再びドアが開いて。
 あれ? 誰だろう。早いなー。
 と思った俺が、振り返ると。
「橘さん!」
 そう、そこには、今日部活に来ない予定だった橘さんが、荷物を担いで立っていたんだ。
「どうしたんですか橘さん。朝練の時に忘れ物したとか?」
「いや、そうではないんだが……お前たちだけか?」
「はい。他の四人、色々と用事があって少しずつ遅れるみたいで」
「そうか……」
 橘さんは少しうつむき気味で考え込んで、それから俺たちを見比べるように顔を上げる。
 何、悩んでるんだろう。
 抽選会、早く向かわなくていいのかな……?
「今日、関東大会の抽選会だろう?」
「はい」
「本当は俺ひとりで行こうと思ったんだが、やはり来年の事を考えると、誰かひとりくらい一緒に行った方がいいかと思ってな。お前たちのどちらか、一緒に来るか?」
 橘さんがそう言った瞬間、俺の頭の中にゴングが鳴り響いた。
 俺VS深司。勝者に与えられるのは橘さんと一緒に抽選会に行く権。
 ……絶対に負けねえ!
「はい! はい! 俺、俺行きたいです!」
 俺は自分をアピールするために、精一杯手を上げて、ついでに声も張り上げる。
 ほら、だってさ、すでにジャージに着替え済みの深司より、まだ制服の俺の方が、すぐに出発できていいって、絶対!
 ああでも、なんか深司、ボヤきそうだな……!
 少し心配になった俺は、ちろっと横目で深司の顔を覗いてみたりして。
 でも意外なことに、もんのすげー、意外な事に。
 深司は穏やかな顔をして、俺を見ながら、言ったんだ。
「神尾が行ってきなよ」
 え?
 今、なんと、言いました? 深司クン。
 橘さんと立海大まで抽選会に行くんだぜ? その権利を、争いもせずにあっさりと、俺に譲っちゃっていいのか? しかもそんな、深司にしては奇跡的なほどに優しい顔して。
 ……深司。
 俺、今までお前の事、ただのボヤキ野郎としか思ってなかったけど……本当は優しくていいヤツだったんだな! まるで天使みたいに見えるぜ!
 ああ、土産に、漬物買ってくるか? こんど俺の秘蔵の、お気に入りのCD、やるからな!(まあ俺の聞く曲は深司にとってはうるさいだけらしいんだけども)
「俺は残ってひとりでも練習してます」
「……?」
「橘さんには、全国大会の抽選会にも行ってもらわないといけませんから。そのために……そのために、もっと強くならないと」
 橘さんは、少しビックリした感じで。
 それからちょっと感動した感じになって、すごく優しい笑顔を見せて、深司の頭をがしがしと撫でる。
「頼んだぞ」
「はい」
 橘さんが(深司にだけ)向けた信頼に、深司は(深司にしては)力強く答えると、一瞬だけ俺を見て、にやりと笑った。
 しんじ……!
 まさか、おまえ、そこまで、けいさん……!!?
「橘さん、いいクジ引いてきてくださいね……まあどこを引いても俺たちは勝ちますけど」
「任せておけ。さあ行くぞ、神尾」
「えっ、あっ、はっ、はい!」
 橘さんの態度は、いつもの通りに戻っていて。別にそれに問題があるわけじゃないんだけども。
 さっきまでのすごく嬉しそうな、優しい笑顔の橘さんに比べると、なんだか冷たく感じてしまう。
 そして俺はようやく気付いてしまった。
 こうして抽選会に行く権利はゲットしたものの、俺VS深司の戦いは、俺が負けてしまったんだって。
 ……深司のやつ。
 一瞬でも天使みたいだって思った俺がバカだったよ!


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