可愛い人

 ほっ、ほっ、ほっ、と軽快な声と共に近付いてくる、やっぱり軽快な足音に、俺は足音の主が俺の名前を呼ぶだろう一瞬前をわざと狙って振り返った。
「サ……」
「おかえり、剣太郎」
「ただいまサエさん! もーサエさん! 大変! 大変だよっ!」
 準々決勝が終わって暇だから、別の準々決勝覗いてくるよ〜、なんて言って立ち去った剣太郎だから、彼の言う「大変」が別の試合にかかっているのは、まず間違いがないのだけれど。
 さて、どこの試合の事かな。
「ボクさ、第四シードの山吹中と、不動峰中の試合を見てきたんだけどさ!」
 ああ、確かにその試合は大変だった。
「結果なら俺も聞いてるよ。山吹中が負けたんだろ? 不動峰中って関東大会初出場どころか、地区大会でさえノーシードらしいのに凄いなって話をさっき……」
「そんな事はどうでもいいよ!」
 剣太郎は両手に拳を作って、きっぱりと言い切った。
 そんな事? どうでもいい? それ以上にすごい事がその試合にはあったのか……?
 うーん。だったら俺も見に行けば良かったかな、その試合。
「ボク、負けるかもしれない……」
 試合中の何かを思い出しているんだろう。悔しそうに唇を噛む剣太郎の俯いた顔が、俺の胸に恐怖にも近い何かを伝えてくる。
 いつでも余裕しゃくしゃくの剣太郎が。
 対戦相手をおちょくったように、相手に四ゲームやら五ゲームやらをプレゼントして、それでも逆転勝ちできてしまうほどの実力を持つ、我等が六角中の一年生部長が。
「負けるかもしれない」なんて……今まで口にした事があっただろうか?
「どんな事が……何があったんだ? 不動峰にはそんなに凄い選手が?」
 剣太郎はしばらく黙っていたけれど、やがてゆっくりと顔を上げて、悔しそうに歪む表情を俺に見せた。
「不動峰じゃない。山吹の方だよ」
「山吹?」
 山吹は、負けたじゃないか。
 でもそうだな、3−1で負けたと言うから、その一勝が凄い試合だったのかもしれない。山吹はコンソレーションで全国に上がってくる可能性もあるし……その選手、要注意だ。
「どんな選手だ?」
 俺が聞くと、剣太郎はゴクリ、と小さく喉を鳴らす。
「多分一年生だと思う。背が小さくて……多分、青学のミラクル一年よりも小さい」
「そんなに? それなのに、凄いのか」
「それなのにと言うか、それだからと言うか」
 剣太郎は頷いて、キッ、と目つきを厳しくする。
 滅多に見せない本気の目。そのくらい凄かったのか……その相手は。
 震えはじめた剣太郎の体を、少しでも抑えるために、俺は剣太郎の両肩に手を置いた。
「すごく」
「え?」
「ものすごく、可愛かったんだよ……!」
「………………は?」
 剣太郎、お前まさか……!
「可愛ければ男でもいいのか……!?」
「バカにしないでよサエさん! ボクはいつでもどこでも女の子オンリーだよ! そうじゃなくてさ、こう、青学のミラクル一年は、『クールに見えて実は熱いのねカッコいいわ』路線だし、まあ別にどうでもいいかなと思ってたんだよ、でもあの子はヤバいよ! ボクと同じ可愛い路線だよ!」
 え?
「全国に行って『きゃーあのコかわいい!』って騒がれるのは、ボクひとりのはずだったのに……思わぬ強敵が現れたよ! テニスなら負けないと思うけど……可愛さ勝負ならちょっと不利だ!」
 剣太郎の目は、ヤバいくらい本気だった。
 さて。
「剣太郎、色々言いたい事はあるけれど、とりあえずこれだけは言っておくよ」
 俺は剣太郎の肩に置いた手にぐっと力を込めた。
 剣太郎は何か、そう、縋るような目で俺を見上げる。
「大丈夫だ。お前とその子は、まったく勝負にならない」
「サエさん……!」
 あ、剣太郎の目がなんか輝いてる。
「だってお前、可愛いさ余って憎さ百倍って感じで、正統派路線から思いっきりはずれてるからね」
 俺はにっこりと微笑んで、ぽんぽん、と剣太郎の頭の触りごこちを確かめつつ、彼のそばから離れる。
 あ、そう言えばまだお昼食べてなかったなあ。弁当、はやく食べよう。
「サエ」
 自分の弁当箱と飲み物を抱えた樹っちゃんが、ひょこっ、と姿を現した。さすが樹っちゃん、神出鬼没。
「あ、樹っちゃん」
「剣太郎、どうしたのね」
「うーん……」
 なんて答えればいいかなあ。人生について悩んでいるとか、答えればいいかな?
 でもそうすると樹っちゃん人がいいから、相談に乗りに行っちゃうかもしれないよね。それはあまり都合がよくないような。
「中一にして身長が百六十五もあるくせに、かわいい路線で売りに行こうって根性が凄いよな、剣太郎って」
「……何の事なのね?」
「判ったよ、サエさん!」
「うわっ」
 突然大きな声、出すなよ、剣太郎。
「先人の築いたありきたりの道じゃなくて、ボクが切り開いた新たなモテ道を行けって事だね! 判った、ボク、がんばるよ!」
 いや、別に俺、そんな事言ったつもりこれっぽっちもないんだけど。
 否定しようにも、半ばスキップみたいな感じで俺の横を通りすぎる剣太郎に、何かを告げる事もできない。
「サエ……一体何、言ったのね?」
 樹っちゃんの当然の質問を、笑顔で濁す俺。
 あはは、本当に。
 今年の一年生部長は、色々とおもしろいね。


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