試合前の出来事

「こんな事言おうものなら、橘さん、次の山吹戦、あっさり棄権しちゃうんだろうなあ……」
 手のひらにできた擦り傷を水道水で洗いながら、深司が呟く。
「もうベスト4だし、棄権負けしたって、関東大会行きは決まっているからな」
 その隣の水道では、石田がひねった手首を冷やしていた。それでも痛いのか、少し顔をしかめてる。
「でも決勝まで行かないと青学にリベンジできないぜ」
「地区大会ではできなかったから、今度こそ青学ぶったおして優勝したいし」
「橘さんに、あの手塚さんと戦わせてあげたいよな」
 俺たちはひととおり、希望を口にしてから、じわじわと押し迫る痛みに耐えるために、口を閉ざす。
 本当は、「痛ぇ!」と叫びたいくらいには、痛くて。
 なんとか我慢しているのは、他の連中は叫んでないって言う、まあなんだ。ようは、見栄っつうか。
「黒いジャージで良かったな」
 しばらくして桜井がそう言うまで、ずっと静かだった。
 桜井はため息を吐きながら、近くの薬局で買った消毒液を自分の腕にたらす。桜井は割れたガラスで腕を切ってた。あんまり深くないから、そんなに血は出てなかったけど。
「なんで」
「確かに」
 俺の疑問の言葉と、石田の同意の言葉が、同時に桜井に投げかけられる。
 手首をひねる以外にも、太い腕一面に擦り傷つくってた石田は、傷をまず水道水で洗い流してから、桜井から消毒液を受け取った。
「ほら、血の染みが目立たないだろ」
 桜井のジャージは、腕のトコロが少しだけ血で汚れていたけど、確かに言う通り、ぜんぜん目立ってなくて、遠くから見たら判らないくらいだ。
「上手く隠せるかな」
「見た目はみんな大丈夫だろうな。俺と石田の傷は、ジャージ着ちまえば隠せるし。膝の擦り傷とか痣なんて朝の練習でコケたと思うだろ」
「問題はいつも通りのプレイができるかだよな」
 俺は、桜井と石田の応急処置が終わるのと、登録までの残り時間を確かめると、それまでずっと流しっぱなしの水道で冷やしていた足をタオルで拭く。
 冷やしたから、少し楽になったけど、でもやっぱ痛ぇ。
 橘さんたちと合流したら、救急箱あるだろうから、コールドスプレー使うか。こっそりくすねるか、なんかして。
「走れない神尾なんてどっからどう見てもおかしいからね」
「うるせえな。ノーコンの深司ほどじゃねえよ」
 冷やし続けていた肘をタオルで拭いていた深司は、キッときつい目付きで俺を睨んだけど、何も言わなかった。よっほどぶつけたトコがいたいのか、眉間に皺を寄せてる。
「間を取って、一番おかしいのはパワーのない石田って事で」
「そうか? トップスピンのキレがない桜井だろ?」
 ひととおり、責任を押し付けあってから、
「とにかくみんなおかしいから。ちょっとくらいムリしてでも、いつも通りのプレイ、しろよ」
 桜井がごくあたりまえの事を言ったから、俺たちは顔を見合わせて、頷いて。
 俺たちは戦いたかった。
 そして勝ちたかった。
 こんな事で、橘さんに心配かけたくなかった。
 だから、秘密にしようと決めたんだ。俺と深司と石田と桜井で。

 それが、こんな結果になるなんて、思いもせずに。

 きついオレンジ色の光が、橘さんだけにふりそそいでいるみたいだった。
 それが眩しくて。目が痛くて。
 泣きそうになるのをこらえるのに、必死だった。
「すみません」
「もういい」
「すみません」
「もう謝るな、と言っている」
 そう言った橘さんが、静かに微笑んでいたから、俺はなんか本当に、自分がどうしようもなく思えた。
 情けない。
「忘れてくれるなよ、神尾」
「?」
 俺がゆっくりと橘さんを見上げると、橘さんの大きくて温かい手が、そっと俺の頭に乗る。
「お前らが黙って無茶した事には腹が立ったさ。お前らが怪我人じゃなけりゃ、一発ずつぶん殴ってやろうかって考えるくらいにはな。それでも、お前たちが俺を必要としてくれて、俺のためを思ってくれたって事自体は、嬉しく思う」
「橘さん……」
「だからな、忘れてくれるな。同じように、俺にもお前たちが必要なんだって事を、な」
 なんでだろう。
 橘さんが俺たちにくれたものは、たくさんあって、そのどれもがこんなふうに、温かいのに。
 なんで俺たちは、橘さんを貶めるような事しかできなかったんだろう。
 どうせ負けるなら。どうせまともに戦えないなら。
 はじめから棄権してた方が、ずっとずっと良かったはずなのに。
「すみません」
「だから謝るなと言っている」
「すみません」
「……リズムリズム言ってる暇に、日本語を覚えるべきだな、お前は」
 くしゃり、と髪の毛がかきまわされる感触と、温かい笑い声。
 ああ、いつか、必ず。
 できるだけ早く。
 この優しさに、報いる事ができるようになろう。


100のお題
テニスの王子様
トップ