「色々考えたんだが、やはり、今の俺たちにはこの方法しかないだろう」 放課後、めずらしく練習の前に行われたミーティング。 橘さんはノートに挟んだわら半紙を机にのせ、引きずって、机の真ん中まで持っていく。 上からS1、S2、S3、D1、D2と書いてあって、それはまず間違いなく、明後日の試合で使うオーダーの事だと思うんだが。 S3の隣に橘さんの名前が書いてある以外は、真っ白(実際は紙がわら半紙だからくすんでいるんだけども)だった。 ……なんだこりゃ。 「ベスト16まではいつも通りだ。だが、互いに順当に勝ち進んだ場合、ベスト8は氷帝と当たる」 「これは対氷帝戦のオーダーって事ですか?」 「そうだ」 氷帝学園。 どこからそんなに人が集まるんだか、二百人もの部員数を誇っていて、その頂点に立つ部長は、Jr選抜経験のある跡部とか言うヤツ。 「橘さんがS1じゃないなんて……」 隣に座る森が、不安げに呟いた。 皆同じ事を思っている。向こうのS1は間違いなくその跡部ってヤツで、多分、少なくともまだ、俺たちはそいつに敵わない。橘さんでなきゃ、無理だ。 それなのに橘さんはS3に居る。 「あ……まさか」 何かに気付いたのか。桜井は目を見開いて、仮オーダー表を見下ろす。 「S3までで勝負をつけるんですか?」 「よく判ったな、桜井。その通りだ」 橘さんは力強く頷いて、それからわら半紙を手繰り寄せた。 「氷帝は都大会までレギュラーメンバーを三名しか使わず、今のところそいつらはシングルスにしか入っていない。つまりダブルスふたつは準レギュラー……シングルスに比べて勝つ可能性が極めて高くなる、と言う事だ」 「ダブルスふたつとって、シングルスをひとつ、橘さんが?」 「そう言う事だ。跡部相手となるとさすがに結果は読めないが、それ以外の相手ならば勝てる自信がある。完全実力主義の氷帝ならば、跡部は間違いなくS1に居るはずだ」 橘さんは、必ず勝ってくれる。 それはつまり、ダブルスふたつは絶対に、負けられないって事、だよな? 「今日明日はダブルス練習のみに絞る。石田と桜井、内村と森、それから深司と神尾もだ」 「俺たちも?」 「明日、三組総当りで試合をする。結果、実力順でダブルス1、ダブルス2、シングルスになる……いいな?」 空気が張詰めたような気がしたのは、俺の気のせいじゃない。 森がいっそう不安の色を強くして、俺を見た。 シングルスにはなりたくない。 それだけが頭んなかグルグル回って、気が狂いそうだ。 深司やアキラはいい。元々シングルスなんだからな。でも、俺たちは違う。このテニス部ができてからずっと、ダブルスでやってきた。 負けられない。負けたくない……! 呪文のように、口の中で俺はその言葉を繰り返す。 「橘さんを恨むのは、筋違いだよ」 俺と森のペアと打ち合ったあと、ぶっ続けで石田や桜井と打ち合った深司たちはすっかりヘロヘロで、アキラは速攻水呑場に行ったけど、深司はなぜか俺の隣に座ってた。 「……何の事だよ」 「あれ? 違ったんだ」 「……」 俺はなんとなく、両手で顔を覆う。 そんなつもりはなかったけど、そうなのかもしれないと思ったら、顔、見られたくなくなった。 だって橘さんは。 「お前らに任せる」とは、言ってくれなかったんだ。 勝つ、ために。 「橘さんはさ、別に、実績なんて欲しくないと思うよ。実績だけが欲しいなら、そもそもこんな学校、来てないと思うし。それこそ青学にでも行けばよかったんだ。橘さんならランキング戦とか言うのも問題ないだろうしさ」 「だから、何の事だよ」 「実績がなくて困るのは、橘さんじゃなくて俺たちの方」 コートの中から、森が俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。 ああそうだ、次は俺たちと石田たちが試合、するんだよな。 「橘さんは強い人だから。都大会で終わっても、これまでの過程で喜んで、満足できる人だろ。陰口なんかも気にせずに」 『地区大会抜けたからっていい気になるんじゃねえぞ!』 そんな言葉がすれ違いざまに吐き捨てられたのは、ついこの間のこと。 あの、ナイフみたいに鋭い言葉が、負けた時には馬鹿にした笑いに変わって襲ってくるのかと思うと、それだけでぞっとする。 『えらそうな口ききやがって』 『あんだけの事件起こしておいて』 『結局都大会止まりかよ』 ――嫌だ。 「勝たないと。東京ナンバーワンの氷帝に、最善の方法で、全ての力を尽くして」 そうすれば。 氷帝を破ったって実績さえあれば、もう誰も俺たちに文句を言ってきやしないだろう。馬鹿にする事だって、できないに決まってる。 ああそうだ。俺は勝ってほしい。俺たちが、だけじゃなくて、不動峰と言うチームに。 でも。 「橘さんを恨むなって、言ったよなお前」 「言ったけど?」 それってよ。 「それって俺らがシングルス行きっつってんのか?」 俺が睨み上げながら聞くと、深司は迷いもせずに、こくんて肯きやがった。 「うん、そう。だって内村たちが俺に勝てるわけないし。まあ神尾がボケた事したらどうなるか判らないけどね……」 「このヤロウ……ぜってー、ぶっつぶしてやるからな!」 「できるものならやってみれば。多分無理だと思うけどね」 「てめっ……!」 「うちむらー! 早く来いよ、何やってるんだよ!」 ちっ。 しょうがねえな、ここは勘弁してやるよ。 俺は立ち上がって、ラケットを手に取ると、コートに向けて歩き出した。 負けられない。 負けたくない。 そして。 わら半紙にマジックで書かれた、手作りの対戦成績表には、俺らの名前の横にしっかり×がふたつ並んだ。 明日が大会だからと早めに練習が終わって、皆が帰った後も、俺と森は部室に残ってた。 ゆっくりと、森の指が×をなぞる。 こいつの事だから、「仕方ないよね」なんて言うかと思った。したら、ぶん殴ってやろうと思った。 けど。 「悔しいね」 森はそれだけ言って、俺の返事を待ってた。 「だな」 答えると、森は俺に振り返る。 「もっと強くなろう」 「ああ」 「そして、チームの力になれるように、頑張ろう」 静かに微笑む森の顔が見えなくなるように、俺は帽子をいっそう深くかぶった。 「ああ、そうだな」 |