クレヨン

 まるで、忘れ去られた存在のようで。
 胸に痛い、白色。

「偵察に行って、ビデオを撮ってきたんだ。銀華中はタイミングが合わなくて練習が終わっていたから、山吹中だけなんだけどね。参考にはなると思うから、時間がある奴は今日ウチに来ないか?」
 部活が始まる前、乾がレギュラー陣をあつめてふとそんな事を言い出したから、手塚と英二と不二とタカさんと海堂、それから俺の六人は、部活の後に乾の家にお邪魔する事となった。
 ちなみに越前は「そんなモン見る必要ないッス」とふてくされたような態度で頑なに拒否し、桃は越前に付き合って帰ってしまったため、欠席。
 俺たちは乾の撮ったビデオを一通り見てから、乾を中心に軽い打ち合わせの体勢に入った。
「大石、赤と緑のペン取ってくれるかな。多分一番上の引き出しに入っているから」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
 一番机に近い位置に座っていた俺は、軽く手を伸ばして引出しを開く。
 中には無造作に放り込まれた数冊のノート(多分新品)と、十本近いペン。
 それから、二十四色のクレヨンの箱。
 俺が幼稚園に通っていた頃、皆十二色のクレヨンを使っていたから、二十四色クレヨンを持っているヤツはほとんどヒーロー扱いだったけど……乾もヒーローだったんだろうか。
「懐かしいなあ」
 俺が思わず呟くと、比較的近くに居た英二とタカさんも引出しの中を覗き込んだ。
「へ〜、クレヨンかあ」
 英二は乾に許可を取る事もせず、勝手にクレヨンの箱を取り出した。
「確かに懐かしいね。幼稚園とか、小学校の低学年くらいでしか使わないからなあ」
「僕は高学年でも使ったよ。図工でね、クレヨンは絵の具を弾くから、その効果が面白くて」
 と発言するのは不二。なんとなく不二は芸術的センスがありそうだから、画材に拘りがありそうだなあ、なんて勝手に思ってみたりする。
「で、乾、なんでこんなもん机の中に入れてんの?」
「特に意味は無いよ。子供の頃使っていて、引き出しの中にしまってそのままにしているだけだ。わざわざ捨てる必要もないかと思ってね」
 自分で乾に質問をしておきながら、乾の返事をまともに聞こうとせず、英二はクレヨンのフタを開けた。そんな英二の態度はどうかと思ったけれど、俺も気になる事があったんで、一緒に覗いてしまう。
 二十四本のクレヨンが、ずらりと並んでいた。
 けっこう使い込まれているようだ。入れ物自体が汚れていたし、二十四本、長さはまちまち。一番短い緑色は、親指の爪くらいしか残っていない。
 今は黒が好きだって言っている乾だけど、子供の頃は緑とか青が好きだったのかもしれないな。
「やっぱり、白いクレヨンはそのまんま残るよな〜。絵の具だと白ってすっげー使うけど、クレヨンとか色鉛筆とか、なんで白が必要なのか判んねーよな」
 英二が話のタネにしたのは、一番端にしまわれている白いクレヨン。僅かな汚れも無く、一ミリも減ってないそれは、箱の中で明らかにひとつだけ浮いていて。
 それこそが、俺が確かめたかったもの。
「白いクレヨンかあ……」
 俺は英二の肩越しに手を伸ばし、白いクレヨンを手にとって、光の中に掲げた。
「幼稚園の時さ、先生が『好きな色のクレヨンを手にとってみて』って言うから、俺、迷いもせずに使ってない真っ白なクレヨンを掴んだんだよなあ」
「大石、そんな時から白好きだったんだ」
「うーん……その時はそうでも無かったと思うけど、よく判らないな。ただ、一番長い白いクレヨンを手にとるチャンスなんて、こんな時しかないから、手にしてみたかっただけかもしれないし」
 今でもはっきりと思い出す。
 得意げに、自信を持って、俺が握った白いクレヨンが。
『じゃあ、その色で描けるものを、絵に描いてみましょう』との先生の言葉と合わさって、幼い俺に強い絶望を与えた事。
 目の前に置かれた白い画用紙に、白いクレヨンで描けるものなんてなにもなくて、俺は途方にくれて、泣いて、先生を困らせたんだよなあ。
 それから。
「かわいそうだ、って思ったんだ」
「何が?」
 英二が首を傾げる。
「だから、白いクレヨンが」
「なんで」
「こんなに綺麗なのに、誰からも必要とされずに、放置されている姿がさ――まるで、仲間はずれみたいじゃないか。本当はこいつ、なんにでもなれるはずなのに、無意味な存在でしかなくて」
 それが悲しくて悲しくて、俺はずっと泣き続けたんだ。
 思い出すとおかしくて、ふと笑みを浮かべると、あの頃の胸の痛みがほんの少しだけ蘇り、胸がちくりと痛くなる。
「……クレヨンの、話ッスよね?」
 床に座っている海堂が、不思議そうな顔で俺を見上げてきた。
「まあ、そう言われてしまえばそうなんだけどさ。子供の頃って、そう言うの、あるだろ?」
「ありますか……?」
「あったかもしれないし、無かったかもしれない。なんにせよとても大石らしいじゃないか。『三つ子の魂百まで』の見本のようなものだな」
「なに言ってんだよ乾! 大石は三つ子じゃないぜ!」
 ばっかでー、なんて言いながら乾を笑う英二に、冷ややかな視線が集まった。
 ……今度英二のために、図書室でことわざ辞典を借りてこようか。
「英二、馬鹿なのは英二の方だよ。『三つ子の魂百まで』の『三つ子』は、『三才の子供』って意味」
「え、そうなの!?」
「そうだよ。つまり、大石は三歳の頃から人の痛みを理解できる優しいヤツで、百歳までそうだって事」
「そんなの当然じゃん! なあ大石!」
 英二は自信ありげに肯いて胸を張り、俺の背中を叩くけれど。
「いや、当然かどうかは……」
「とーぜんなの!」
 言い訳も反論も許してくれない、英二の断言。
 俺は苦笑を浮かべながら、頷く事しかできなかった。
「うーん、まあ、努力はしてみるよ」
 俺はもう一度、真っ白いクレヨンを光の中に掲げて。
 今も俺はまだ子供だけれど、もっともっと子供であった頃は、この白が悲しいものだとしか思えなかった。
 けれど今は、違うと思う。
 白は存在が無いわけではなくて、ただ優しくそこに居て、強烈な他者と調和し、包み込める存在なのだと。
 そして、そんな存在になれたらいいなあと、願う自分もここに居る。

 ひとりひとり、仲間たちを見回して。
「彼らにとっての白であれますように」と、俺は静かに祈った。


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