新しい靴

 千石と出会ったのは、中学に入ってからだから、二年と四ヶ月くらい前になるんだろうな。
 その間、俺は千石を蹴ったり殴ったり罵ったり、色々してきたけれど、今日ほど心の底から呪った事はないと思う。
 携帯の電池が切れかかってたのは、家を出る前から気付いてた。
 けど、乗ろうと思っていた電車の時間ギリギリだったから充電なんてしてる暇はなくて、まあちょっと買い物に行ってくるだけだから何とかなるだろうと思ってたんだ、俺は。
 アイツが電話なんてかけてこなけりゃ。
 俺が本気で、電池が切れそうだって焦ってるのに、アイツがちっとも切ろうとしなかったから。
「くそっ……!」
 俺は(家に帰って充電するまでの間)使えなくなった携帯を握り締めた拳をふるわせる。
 それからはあ、とため息吐いて、心を落ち着かせた。
 そうだ。今更アイツを呪ってもしょうがない。
 本気で電話を切ろうと思えば、こっちから切る事だってできたんだしな。
 そう、きっと、アイツが言う事聞いてくれると信じてた俺が悪いんだ。それか、サイフの中身をきちんと確かめてこなかった俺が悪いんだ。
 判ってる。判ってはいるけど。
 気持ちが焦る。
 焦りはイライラに代わって、そのイライラが余計に、考えをまとまらせてくれない。
 俺は無意識に俯きがちになっていた顔を上げる。
 すると、今日の目的のブツである靴が、目に入る。
 定価19,800円もするそれは、マジックで二本線が引かれ、16,900円に直されていたわけなんだが、それが余計に俺を混乱させていた。
 俺はちらり、と自分の手元を見る。携帯握っている手とは、逆側の手だ。
 ちょっと恥ずかしいとは思いつつも、靴代を親に出してもらう手前、拒否する事ができなかった割引券。そこには「表示価格より更に20%オフ」と書かれている。
 そしてすぐ隣の店にも同じ靴があって。
 その店の天井から吊り下げられているポスターには、定価より30%オフと書いてある。
 判らない。
 どっちが安いんだ……!?
 そんでもって消費税込みで、今の俺のサイフの中身(ちなみに14,389円)で足りるのか……!?
 俺はふたつの店の前をウロウロしながら、悩んでいた。
 この際、多少損するのは構わない。親に怒られればすむ事だ。
 けど、レジに持ってって金が足りないなんてそんな事、俺には耐えられない。しかもこんな日に限ってレジについているのは、片方がいかにもな女子高生、もう片方が綺麗なお姉さんだ。
「くそ、千石め」
 俺は何度目か判らない、千石への呪いの言葉を吐いた。
 アイツから電話さえかかってこなけりゃ、携帯の電池はまだ残っていて、そうすりゃいくら必要か計算する事くらいはできたんだ。
 やばいな。マジでどうする、俺。
 自慢じゃないが、暗算で二重の掛け算(しかも小数点以下)の計算がきちんとできる自信はない。一旦店を出て計算する……いや、手帳とか持ってないからな、俺。近くのコンビニか百均でメモと書くものを買って……いや、そのせいで靴が買えなくなったらバカだよな。多分俺、ギリギリしか持ってない、金。
 駅まで戻って伝言板借りて計算。いや、ここの駅、伝言板まだあったっけか? ちくしょう、携帯なんか普及しなけりゃ、どこの駅にも確実に伝言板があったのに。
 どうする、俺……!
「あれ? 山吹中の南じゃないか?」
 聞き覚えのある声に、俺は振り返る。
 穏やかで優しくて、けれどどこか力強い、安心感のある爽やかな声の持ち主は。
「ああ、やっぱりそうだ。こんなところで会うなんて偶然だな。南も買い物に来たのか?」
「大石……」
 なんとなく、大石とは初めて顔を会わせた時から、気が合いそうな予感がしていた。
 なんか、あるだろ? 人間を見た目で判断しちゃいけないって良く言われるけども、それでも、表情とか雰囲気とか語り口調とかそんなんで、「あ、こいついいなあ」って思うやつ。それだ。
 だからなんとなく俺は、ライバル校の選手(しかも同じダブルス1固定選手)だと判っていても、大石を好意的に思っていたわけだけども。
 いいヤツどころじゃない。
 こいつは神かもしれない。
 今この時、よくぞ俺に声をかけてくれた。
「大石、いきなりで悪い。ちょっと携帯借りれないか?」
「はあ? 携帯……?」
 そうだよな。そりゃ、驚くよな。携帯なんて借りるようなもんじゃないよな。
「ごめん、俺、今日は家に忘れてきちゃったんだ」
 な……んだ、って?
「あ、すぐそこに電話ボックスあったし、俺一応テレフォンカードも持ってるから、電話するならカード、貸すけど?」
 いや。
 電話がしたいわけじゃないんだよ、俺は。
「ありがとう。でも、電話がしたかったわけじゃないからさ」
「あ、そうなのか? でもじゃあ、なんでだ?」
「ちょっと計算したくてさ……」
 俺が苦々しい顔してそう言うと、大石は俺の目の前にある、靴の値段をまじまじと見て。
 それから天井から吊るされている定価より30%オフの広告を上目使いで見ると。
 最後にもう一度、俺をまじまじと見た。
「その靴の値段なら13,860円。消費税込みだと、14,553円になると思うけど?」
「え!?」
 なんで判るんだ? 俺がこの靴の値段を知りたがってる事を。
 って、そりゃ、判るか。思いっきりものほしそうな顔してるんだろうな、俺。
「暗算で消費税までキッチリ計算できるなんて、凄いな」
「うーん、でもちょっと待ってて。今確かめるから」
 そんでもって大石は、荷物から手帳を取り出して、そこに挟まっているカード型の計算機を、左手で猛スピードで叩き出す。
 ……なあ大石。
 お前は一体何者なんだ。
 計算機を持ち歩いている事に驚くべきか、計算機を叩くスピードに驚くべきか(しかも左手で)、迷う余裕すら大石は与えてくれなかった。
「うん、間違いない。14,553円だ」
「そうか……」
 じゃあ、手持ちの金じゃ足りないな。諦めるしかないか。
 大石ならきっと、頼めば200円くらい貸してくれるだろうけど……なんか大石の人の良さにつけこむみたいで嫌だからな。おとなしく諦めよう。
「うーん、こっちの店の20%引き割引券の方が安いみたいだなあ。13,520円で、消費税込み14,196円になる」
「本当か!?」
「うん。今日家でその券見つけたんだけど、今持ってないんだよな。持ってくれば良かったな。そしたら南にあげたのに」
「いや、大丈夫だ。持ってるから」
 俺がひらひらと割引券をちらつかせると、大石は「良かったな」と微笑んだ。
 ああ、ほんとよかったよ。
 しかも、こっちならサイフの中身で足りる。
 よかった。わざわざ来たかいあったよ。これで何も買えずに帰ってたら、今日一日最悪だったからな。
「ありがとう、大石」
「困った時はお互いさまだよ」
「じゃあ、お前が困った時はいつでも言ってくれな。俺、いつでも駆けつけるから」
「大げさだなぁ。そんなに大した事をしたわけじゃないのに」
 大石は照れくさそうに頭をかくけど。
 いや、ほんと、大した事だって。
 なんたって、最悪で終わるはずの俺の一日を救ってくれたんだからな。


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