pleasure

「あれ?」
 夏休みを間近に控えたある日の放課後、俺はロッカーに置きっぱなしの英語の辞書をそろそろ持ち帰ろうと心に決めた。例年通り、夏休みの宿題は大量に出されていて、中でも英語の宿題は、辞書無しには片付きそうに無い。
「どーした?」
 たまたまその時近くに居た、クラスメイトのひとりが、俺の独り言に答えてくれた。ありがたいような、そうでもないような。
「英語の辞書がねーわ。いつから無いんだろう。最後に授業で使ったの、先月だしなあ……」
 ぱた、と俺はロッカーを閉める。
「無くていいのかよ」
「どうせ千石が勝手に持ってってそのままだろうからな。取りに行ってくる」
 俺は後ろ手にクラスメイトに手を振りながら、千石のクラスへ向けて歩き出す。
 けれど。
「――お前、よく千石の友達、やってられるよなあ」
 突然そんな事を言われて、うっかり足を止めてしまった。

 そいつが言う事には。
 千石と言うヤツは、いつも飄々と適当に生きていて、俺のような平凡な人間を上手く利用し、めんどくさい事を上手に避けておいしい所だけ持っていく、ムカつくヤツなんだそうだ。
「おいおいそれはいくらなんでも言い過ぎだろう」と反論できないくらいには、そいつにとっての千石の認識と、俺にとっての千石の認識は、大差が無い……と思う。要領いいっつうか、なんかあいつ自由に生きてる感じで、でもそのためのリスクを、自分ではあんまり背負ってないような(俺よくあいつのせいで怒られたりしてるし)。
 ……なんで友達やってるんだろうな、ほんと。
 と言うか、なんで千石と一緒にいて嫌じゃないんだろうな。
 そりゃムカつく事あるし、殴ってやりたい事なんてしょっちゅうだけれど(実際殴ってるけれども)、決定的にこいつダメだって思った事、ないよな。むしろさっきのクラスメイトの方がダメだと思ったな(俺が誰を友達にしようと、勝手だろう。心配してくれる分にはありがたいかもしれないけど、俺や千石を馬鹿にした感じがムカついた)。
 うーん、たとえば東方とは、ダブルス組んでテニスするのがむちゃくちゃ楽しい。テニスしてない時でも、一緒に居てなんか落ち着くなあと思う。うん、だから、東方と友達やってる自分は、ものすごく納得できる。
 でも、千石はなあ。
 まあ、面白い奴だとは思うけど……。
 ……なんでだろう。
 人に言われるまで疑問にも思わなかったんだから、まあ、考えなくてもいい事なのかもしれないけど、こう言う事は深みにはまるとなかなか抜け出せないんだよな。
「千石!」
 突然、思考の中心人物の名前を呼ぶ声が聞こえて、俺はびくっとして足を止めた。
 どうやら考えに耽っている間に、俺は千石のクラスの近くにまで辿り着いていたみたいだ。んで、千石のクラスには、千石以外にもちらほらと残っている生徒が居るみたいで。
「テニス部さあ、昨日の大会で負けたんだってなー! で、お前、どうだったんだ? やっぱお前だけ勝ったのか? ウチのテニス部のエースなんだろ?」
 ――俺は自分を立派な人間だと思った事もないけれど。
 でも、こいつを無神経な人間だと思う権利くらいはあるんじゃないかと思う。
「んーん。俺、負けちった」
「マジで!? 相手、どこのどんなヤツだ?」
「不動産中って言ってね」
 不動峰だろ。
「今年突然力を伸ばしてきたガッコで、相手は二年生の……」
「二年!? お前二年に負けたのかよ! ダッセー!」
 誰だか知らねーが。心底余計なお世話だっつうの。あの試合見てないくせに――何にも知らないくせに、ウダウダ言うなよな。
 俺はぐっと、拳を握り締める。
「うん、俺、ダッセーの。だから負けちゃったの。だから、練習頑張らないと」
 無神経に俺を苛立たせる笑い声に混じって、小さく椅子を引きずる音が聞こえる。千石が立ち上がったんだろう。
 教室の中を覗き込む事はできなかったけど、多分今、千石は笑ってるんだろうなあと思う。
 あいつのそう言う所は凄いって、心底思う。
「練習頑張れよー、ブチョーさん」
 これは別に、俺の姿が教室の中から見えているわけじゃない。
 良くある間違えだ。俺が部長になったばかりの頃は、ムキになって説明していたものだけど、まあ間違えられても仕方がないかなと思うから、最近は笑って流せるようになってきた。
 ま、普通、強い奴が部長になると思うよな。俺だって部長やれって言われた時ビックリしたし。
「……俺、部長じゃないよ?」
 千石も流してしまえばいいのに、小さな声で返事をした。
「え? そうなのか? だってお前、部で一番強いんだろ?」
「まあね。でも俺、部長じゃないの。部長は南」
「南ぃ? 南ってあの、地味なヤツ? ダブルスとかやってんだろ? 大丈夫かよあいつ部長で。たよりねーの。お前、今からでも部長になった方が……」
 ガンッ! と、大きな音。相手の言葉を奪うくらいに。
 それから少しだけ間を開けて、ガタン、と何かが転がる音。
 教室の中は見えないけれど、音から予想するに……千石が机か椅子を蹴って、それが倒れたん、だろう。
 音がずいぶん重かったから、机、かな?
 おいおい、何やってんだよ、千石。
「ごっめ〜ん、聞こえなかったよ! もっかい言ってくれるかな! 言えるもんなら!」
 ものすごい明るい声で、そんな事言いやがって。
 ……いや、言えないだろ、普通。
 相手も乾いた笑いしか返してこられなくなってるぞ。
「じゃ、俺、練習行ってきま〜す! 机、倒れちゃったみたいだから、起こしといてネ!」
 いやほら、一応お前が倒したんだから、お前が起こした方がいいんじゃないか……?
 心の中でそっとツッコミを入れつつ、その場から動けなかった俺は、スキップしながら教室を出てきた千石と、ばったり顔を合わせてしまったわけで。
「……あ」
「や、やあ」
 その場を取り繕う上手い言葉も出てこず、手を上げて挨拶してみた。
「南ってさー、嘘つけないタイプだよねー。普通こう言う時って、さもたった今ここに着きました、だから何を話していたのかなんてぜんぜん知りません、って態度、見せるよ、普通!」
 悪かったな。
 つうかなんでお前が、何にもなかったような顔してるんだよ。
「南、怒ってるでしょ」
「怒ってねーよ」
 突拍子もない千石の問いに、俺が乱暴に答えると、千石はにかっと笑った。
「いや俺にじゃなくて、あいつに。しかも、そうだなあ、俺が二年に負けてダッセーとかってとこで、一番怒ったでしょ」
 ときどき。
 こいつは、笑顔でイヤな図星を突いてきて、それにはホントに困る。
 俺はどう答えていいか判らなくて、棒立ちになるしかない。必死に言葉を探してしまう。
「ま、それが南のいいトコなんだけどさ。ありがとね」
 ときどき。
 ホントにときどき、悩んでいるのも考え込んでいるのも馬鹿馬鹿しくなるくらいに、こいつは笑顔で嬉しい事を言ってくれやがるから。
 だからホントに――困っちまうんだよ。


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