いつもの朝

 息が切れる。
 呼吸のしすぎでノドが痛い。肺が痛い。
 全身から流れる汗が、まとわりつくような熱さと合わさって、鬱陶しくてたまらない。
 髪の毛が顔や首にへばりつく。イライラしながら、俺はそれをはらいのける。
 そんな俺に合わせるように、ネットの向こうの深司が、ボールを二、三回バウンドさせてから、空に向かって投げた。
 ラケットが風を切る。
 腕の振り切り方、体のひねり方。何回も、何十回も……百回は軽く越えてるかもしれないくらいに見せられたそのフォームから繰り出されるサーブは、たったひとつ。
 深司がこのサーブひとつで、いくつのサービスエースをとったかなんて知らねえ。って言うかどうでもいい。俺はこのサーブを死ぬほどくらってきて、何十回も返してきて、今重要なのはそれだけだ。
 今はもう、ほぼ百パーセント、深司のコートに返せる。
 でも思い通りの場所に返せるのはその半分くらいで――必死に打ち返したボールは、真っ直ぐ深司に向かって飛んでった。
 汗かいて、息切らして、それでもなんてことない涼しげな顔した深司が、ネットすれすれに落ちるドロップショットで返してくる。
「リズムに乗るぜ!」
 スピードのエースをなめんなよ、深司! このくらいのボール、ヘでもねえっつうの!
 俺は後ろ足で思いきり地面を蹴って走り、精一杯腕を伸ばして、ボールにくらいついた。
 ボールは一瞬、俺のラケット面に触れて、深司のコートに跳ね返る。
 瞬間、影が太陽の光を遮った。
 雲、か?
 体勢を保つために足で支えて、ボールじゃなくその少し上に目を向ける。
 違う、雲じゃない!
「これを拾えたのはさすがって言っとくけどさ」
 そっから世界は、全部がスローモーションに見えた。
 深司のボレーが俺が居るのとまったく逆がわのサービスラインギリギリに突き刺さって、コート外に跳ねていくところまで。
 精一杯足を動かして見ても、ボールに向けて飛び込んで見ても、届きやしない。深司ははじめっからそう言うところ狙ってんだから、当然っちゃ当然かもしれねぇけど。
「次の相手の動きくらい、予測して動いた方がいいと思うけどね。神尾はその足でコート全体をカバーできるなんて自惚れてるみたいだけどさぁ、ちゃんと両足で立っている時だけなんだよね。今みたいに体勢崩してると、隙ありすぎ。簡単過ぎてやんなっちゃうよ」
 ふう、と大きく息を吐いて、深司は髪をかきあげた。
「ゲームセットウォンバイ、深司! 6−3!」
 審判してた森の声がコート中に響いて。
 俺は試合が終わってしまった事を、認めるしかなかった。
「ちくしょう……」
 俺はラケットを手放して、その場に大の字に寝転ぶ。
 陽射しが眩しい。目が痛い。
 でも今はそんなこと、どうでもいい。
 なんでだ。なんで勝てないんだ!?
 毎朝毎朝こうやって深司に挑戦してんのに、全然勝てない。昨日なんて「アキラが深司に負けてるトコ見ねーと、朝が来た気がしねえよ」とか、内村に言われちまうし。
 判んねえよ。
 どうしたら勝てんだ?
 今よりぐっと背が伸びれば、力がつけば、勝てるか? 深司より有利な体が手に入らねーと、勝てねーのか? そんなん納得いかねえよ!
「くそっ、くそっ、くそっ!」
 イライラを吐き出して、拳を地面に叩きつける。
 ムカツク。なんだよあいつ。俺にアドバイスじみた事してきやがって。勝者の余裕ってヤツかよ。
「神尾」
 ゆっくりと足音が近付いてきて、俺の頭の上で止まる。
 俺の顔を覗き込んでくるのは、橘さん。
「た」
「そろそろ起きろ。朝練終わらせねえと、授業に遅れる」
「……すみません」
 俺は上半身を起こして、それから立ち上がる。
 頭とか背中に土が沢山ついてたのか、橘さんがそれを掃ってくれた。
「すみません」
「謝るところか? ここは」
「いえ、そうじゃなくて」
 深司みたいに強くなくて、毎日無様な負け姿見せて、役に立てなくて。そう言う意味の「すみません」だ。
 説明するのも惨めで、イヤだけどよ。
「俺、強くなりたいです。とりあえず、深司に勝てるくらい」
「とりあえず、か」
 橘さんは眩しそうに目を細めて、微笑んだ。
「強くなっているぞ、お前は。毎日少しずつ成長している」
「それじゃ駄目なんですよ! それじゃあ……」
「そう焦るな」
 ぽん、と橘さんの大きな手が、俺の肩を一回叩いて、それにものすごく安心した。
 焦るなって言われたって、焦るに決まってんだけど、ちょっと落ち着いたような気もする。
「部誌の一番最後のページを、放課後にでも見てみるといい。簡単にだが、お前と深司の朝の対戦記録をつけてある」
「……いいですよ、そんなの」
 見なくても判る。
 毎日、毎日、同じ。深司の連勝記録が更新されていくだけじゃんか。そんなの確かめてみても、やる気が出る自信ねえよ。それどころか、もっと惨めになるだけだ。
「だがお前は気付いていないだろう? お前が先月までは深司に二ゲームを取るのがやっとだった事に」
 俺は急いで橘さんを見上げた。
 橘さんはさっきよりも更に(少しだけだけど)優しそうに笑ってる。
「そう……でしたか?」
「ああ」
 橘さんは力強く頷いてくれた。
「深司も成長している。だがそれ以上のスピードでお前は成長している。お前は深司を余裕しゃくしゃくだと思っているかもしれないが、それは誤解だぞ。お前よりもずっと深司は焦っている。お前に追い着かれまいと必死になってるんだ」
 俺は何とも返事ができなくて、困ってしまって、ごまかすように視線を反らした。
 その先に居たのはタオルで汗を拭いている深司で、一瞬目があったんだけども、キッて睨まれたかと思うと、目も反らされちまう。
「俺、勝てますか。いつか深司に」
「この調子で行けば、いつか、な」
 俺の成長が止まるかもしれない。深司が俺よりもずっと早いスピードで成長してしまうかもしれない。
 でも、もしこのままなら。
 俺はいつか深司に四ゲームとれるようになって、タイブレークとか持ち込めるようになって、そんで、勝てるようになるかもしれない。
 頑張ろうっていつも思ってるけど、今日はいつも以上に思った。
 俺が深司に負ける姿が、朝いつも見る風景じゃなくなって、したら内村は朝が判らなくなるかもしれない。
 そうなればいい。
 そう、なりたい。
 その時には「ザマー見ろ、深司、内村!」って、勝ち誇りながら言ってやるんだ。


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