安眠会

 俺が部室に到着するのは毎朝六時二十五分。ときおり海堂が俺よりも早く来ている事があるが、基本的には部で二番目に早く登校する。
 一番早く登校するのは、副部長であり鍵当番でもある大石。以前話を聞いたところ、俺が到着する五分前には部室の鍵を開けているようで、俺が部室に入る時にはすでにジャージに着替え終えている日がほとんどだ。
 大石は、大体前日には決定している当日の練習予定(朝・放課後と両方)をホワイトボードに書き写すなどしながら、爽やかな笑みで部室に入ってくる部員ひとりひとりに「おはよう」と声をかける。もちろん俺に対しても例外ではない。部員の中には、大石の朝の挨拶を聞かなければ一日がはじまった気がしないと言う者も居るほどで(ほとんどの者がそのようだが)、大石と言う男の存在の重要性は、普段そこに居る時よりも、何らかの理由で姿を見せない時に身に染みるもののようだ。
 六時二十五分。俺は今日もほぼ同じ時間に部室に到着し、扉を開けた。
「……?」
 いつも通り、扉を開けた瞬間かかるはずの挨拶が、今日はこない。部室の中はしんと静まり返っており、人が動く気配がまったく無かった。
 大石はどうした?
 俺は部室の中を見回す。すると、部室の隅にあるテーブルに着き、顔を伏せて静かな寝息を立てている大石の姿を見つけた。
 おはよう、とこちらから声をかけようとも思ったが、あまりにも気持ち良さそうに眠っているので、声をかけるのもはばかられる。俺は数秒部室の入り口に立ち尽くしていたが、ここで立っていても仕方が無いので、とりあえずジャージに着替える事にした。
 慎重に、余計な物音を立てないように気を使い、部活をはじめる準備を終える。ラケットを手にとって振り返ってみるが、やはり大石は眠ったままだ。
「チィーッス」
 ガチャリ、と入り口のドアが開く。三番目の男、海堂だ。
 海堂も何らかの違和感を覚えたのだろう。立ち止まり、部室の中を見回し、大石の所で視線を止め、最後に俺を見る。その目は何事かと訴えているように見えなくもないが、真相は判らない。
 長い沈黙。とうとう海堂は俺から目を反らし、着替えをはじめた。音を立てないように静かに、だが、心なしか急いでいるようにも見える。この空間が息苦しいのかもしれない。気持ちは、判るが。
 俺は大石のそばに歩み寄り、傍らに伏せてある、乾の字で練習メニューが書かれた紙を取り、ホワイトボードに近付いた。昨日大石によって書かれた昨日の練習内容を消し去り、今日の分を書き示す。
 気付けば、部長・副部長どちらの仕事とはっきり定められていないものは、ほとんどが大石の仕事になっていた。雑用さえも器用にこなす大石と、雑用の苦手な俺の性分を考えれば、これは自然の成り行きだったと言えるが――まあたまには俺がやってもいいだろう。
「おはよう」
 四番目の登場は大抵乾か不二だが、今日は不二だった。時計を見ると、時間は六時三十二分。そろそろ部員が押し寄せてくる時分である。
「あれ? 大石……」
 不二も大石の挨拶がかからなかった事を疑問に思ったようだが、その疑問を口に出した者は不二がはじめてだった。言い終える前に部室の隅で眠る大石に気が付き、言葉を飲み込む。
「どうしたの? 大石。具合でも悪いとか?」
 不二は足音を殺し、俺と海堂のちょうど間まで寄ってきてから、囁くような声で言った。
「俺が来た時には……もう寝てました」
 海堂が不二にそう返答すると、ふたりの視線はほぼ同時に俺に向く。
「俺も海堂と同じ事しか言えん」
 そう言って俺は、まだ半分までしか終わっていない、ホワイトボードに練習メニューを書く作業を続ける事にした。
「ふうん。よく判らないけど、珍しい事もあるもんだね。じゃあ海堂」
「はい?」
「どうせ今やる事なくて暇なんでしょ? 部室の外で待機してなよ」
「なんでですか」
「英二とか、桃とか、堀尾とかがいつも通りに来たらやばいじゃない」
 菊丸や桃城や堀尾が来たからと言って何が問題なのか俺には判らなかったが、海堂はどうやら納得したようで、いつものようにバンダナを締めながら部室を出ていった。
「でも海堂じゃあんまり役に立たないよね。海堂って英二の事苦手そうだし、桃は止めるどころか余計に言い争ってうるさくなりそうだし、せいぜい堀尾を止める役にしか立たないかな。どう思う、手塚?」
「……何の話だ」
「大石副部長の安眠を守る会の会員としての海堂はどうかな? って話だよ。ちなみに会長が君で、僕が副会長。今のところ」
 なんだ、その「大石副部長の安眠を守る会」と言うのは。いつ作った。しかも勝手に俺を会長にするとはどう言う事だ。
 不二はいつもマイペースで、時折突拍子もない発言をする。構うと疲れるので、俺は無視を決め込んだ。
「海堂はなかなかいい会員なんじゃないかな。少なくとも俺にはきちんと忠告してくれたよ」
 もの音ひとつ立てず、いつの間にか不二の背後で着替えている乾。不二以上にマイペースな者をこの部の中から探せと言われれば、俺は乾を押すかもしれない。
「幸いにも菊丸は今日、朝の食事当番だ。おそらく、登校は四十分過ぎになるだろう。桃城は四十三分から四十五分に登校する事が多いから、最初の難関は堀尾だな。だが入り口前で海堂が構えている以上、そこで静かになるだろう」
「そう。じゃああと五分は問題なさそうだね。ところで安眠会会長」
 誰が会長だ、と怒鳴りつけようかとも考えたが、それでは大石を起こしてしまうかと思い、やめておく――俺がめずらしくこんな気遣いをしてしまっている以上、会長と呼ばれてしまっても仕方がないかもしれない。
「大石、いつ起こすの?」
 俺は視線を不二から大石に移した。俺に続いて、不二、乾も大石を見下ろす。沈黙が流れる中、部室には次々とテニス部員が音を立てずに現れ、誰もが挨拶がない違和感に不満を覚えながら、大石の顔を覗き込む。
 起こすのならば、今だろうと三分後だろうと、さしたる差があるわけでもないのだから、こんなに静かにするために気を使わなくてもいいのだろうが。
「練習前には……起こさなければならないだろう」
「誰が起こすのさ。悪いけど僕はいやだよ。誰よりも早く学校に来て、ミーティングだ副部長の仕事だなんだって練習に途中参加して、練習が半端にしかできなかったからって居残り練習し、誰よりも遅く家に帰る日々の繰り返しで疲労がたまっているだろう大石が珍しくうたたねなんかしているのを邪魔するのは」
「……起こすなと言いたいのか?」
「そうは言ってないよ。朝練さぼったからって放課後グラウンド二十周とかは、勘弁してあげれば? とは思うけどね。じゃあ僕はそろそろ英二が来そうだから、安眠会副会長の仕事を全うしてくるよ」
 ラケットを肩に担ぎ、不二は背中越しに手を振って部室を出ていく。全ての決定は俺に任せる、と言う所か。
「さて、俺も会員にしてもらおうかな、会長」
「乾……」
「大石の登校時間はだいたい六時二十分。手塚の登校時間が六時二十五分。五分間……着替えの時間を差し引けば三〜四分と言ったところかな? それほどの短時間で寝付くと言うのは、相当の事だろう?」
 あらためて正論を語られてみると、大石が実は不調なのでは、とさすがの俺でも思いはじめた。
 乾はまだはおっていないジャージを大石の肩にそっとかけ、部室のドアをくぐっていく。
 その他の部員たちも、そそくさと着替えをし、終わったものから退室、の繰り返しだった。大石を起こそうと考える者はひとりとして居ないらしい。
「うわ〜、乾の言う通り、ほんとに寝てるよ、大石」
 菊丸とは二年以上テニス部で共に練習をしてきたが、これほど声を抑えて部室に入ってくる姿をはじめて見た。それは俺だけでなく他の部員たちも同じだったようで、一様に驚いている。
「俺、大石の寝顔はじめて見たかもな〜」
「え? そうなの? 英二、合宿の時大石と同じ部屋だったよね? 手塚と乾かなんかで四人」
「だって大石、俺より遅く寝て早く起きてたんだもん、いつも。相部屋がタカさんや不二だったらともかくさあ、手塚が居たら夜更かしして遊ぶなんてできないじゃん? 電気消して静かに布団入っちゃうと、最初に寝るの俺なんだよね」
「……それっぽいね……」
「それよりタカさん、ラケットどうしたのさ」
「ん? 部室に入る前にバッグごと不二にとられた。部室の中ではラケット持つの禁止って」
「ふうん。さすがだね〜不二」
 ふたりはそのまま黙々と着替えをし、その他の例に漏れず、静かに部室を出て行く。
 ふたりが出て行った時点で時計はすでに六時四十五分を示していた。大石を練習に参加させるのならば、そろそろタイムリミットなのだが……。
 俺はため息をつき、大石を置き去りにする事を決めた。


2へ続く
テニスの王子様
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