安眠会

 十分間でウォーミングアップをし、本格的な練習がはじまるのは七時からだ。
 いつもどおり余裕なく飛び込んできた桃城、越前はコートに到着した時点ですでに汗を流しており、アップをする必要があるのかどうかはだはだ疑問ではあったが。
 そして練習も終盤にさしかかった八時五分。
 乱暴な足音を立ててコートに飛び込んでくる影があった。
「おい、手塚!」
 常に温厚で、冷静であるはずの男は、珍しく声音を荒げ、慌てた様子で俺に近付いてこようとしていたのだが。
「おはようございまーす、大石先輩!」
「おはよう、大石!」
「おはようございます、副部長!」
「あ、お、おはよう」
 しきりに挨拶をしたがる練習に群がられ、ほとんど身動きも取れなくなっている。
 大石が律儀にひとりひとりに挨拶を返し、人ごみをかきわけて俺の隣に到着した時、すでに八時八分になっていた。
「なあ手塚、なんで俺、こんな時間まで部室でひとり寝こけていたんだ?」
「……」
「寝ていた俺が悪いのは当然なんだが……お前、に限らず誰ひとりとして、俺を起こしてくれなかったのか? どうしてだ?」
 どうして、と問われても困る(そもそも、大石は基本的にどうして、と問うてくる事はない。よほど混乱しているんだろう)。起こし辛かったからと言えばいいのか、不二に遠回しに止められたためと言えばいいのか。
 答えに詰まる俺に救いの手を伸ばしてくれたのは大石ではなく、集まってきたレギュラー陣だった。
「だって大石、カゼひいて40℃の熱があるんだろ? さすがの俺でも起こせないって! 静かにするためにがんばったんだぜ〜」
「は?」
「違うよ英二。熱があるのは妹さんで、妹さんの看病するためにほぼ徹夜したんだよね、大石?」
「そんな事してないよ。妹、ピンピンしてるし。ここ二年は風邪なんてひいてないんじゃないかな」
「俺は昨日の晩に食べたハマグリにあたったって聞きましたけど?」
「昨日の夕飯はカレーライスで、ハマグリなんて一口も食べてないけど」
「部長のランニング政権に耐えきれず胃を壊したって聞いたッス」
「そんな事今更気にしてどうするんだよ。だいたい、手塚はまだましな方なんだぞ」
 ……最後の一言が、多少気になるところだが。
「あ、ごめん。それ全部嘘。僕と乾の捏造。そのくらい言っておいた方が皆静かにするかと思って」
 あはは、と俺の背後で不二が笑った。
 大石は目を伏せて頭を抱える。もし今大石が胃を壊すとすれば、それは俺のせいではなく、不二や乾のせいに違いあるまい。
「そんな嘘を振り撒いて、何がしたかったんだ、乾、不二」
「冷たい言い方だなあ。僕たちは大石を心配してたんだよ。大石は手塚が部室に来るまでの三分間で眠ってしまうくらい疲れていたんだろう? そんなに疲れているなら、今日の朝練くらいサボらせてあげようかと言う仲間の優しい気使いさ」
「それに、俺たちだけを責めるのはおかしいな。確かに他の連中は俺たちが騙したが、俺たちより先に来ていた手塚と海堂は騙してない。ふたりも大石を起こさなかった以上同罪のはずだ」
「そう言う問題じゃなくてだな……」
 大石のため息が深くなった……ような気がする。
 表情も変わった……ような気がする。
 今までの、乾や不二を攻めるような表情から、どことなく困ったような、申し訳なさそうな表情に。
「にゃんかよくわかんないけど、大石が元気になってよかったよかった!」
 菊丸が大石の背中を強く叩くと、大石の表情はいっそう複雑になった。
「いや……俺は別に、具合が悪かったわけでも、疲れていたわけでもないんだよ、英二……」
「え?」
 当然の事ながら、全員が視線を大石に集める。騙されていた側も、騙していた側も、我関せずだった俺と海堂も。
 大石は心なしか顔を赤くし、咳払いをしてから小声で説明をはじめた。
「今日、俺、寝坊したかと思って……」
「大石は寝坊しないためにふたつも目覚ましかけてんだろ? そんなわけないじゃん。だいたいもし寝過ごしたとしても、お母さんが起こしてくれるだろ?」
「父さんの事務所が、ちょうど一番忙しい時期が終わったからって、昨日から一泊二日の慰安旅行に行っていて……母さんも、一緒に行っているんだ。だから寝過ごした事を疑いもしなくて、朝食もそこそこに家を飛び出して学校に来てみたら、誰も居なくてさ。そこでようやく俺、一時間時計を見間違えていた事に気付いて」
 ……なんと言ってよいか、判らんが。
「手塚が来たら起こしてくれるだろうと思って、仮眠を取ってたんだけど……まさかこんな事になるとは思わなかったよ」
 ぷぷ。
 皮切りは菊丸だった。
「あはは〜、ばっかでー大石! そんなマンガみたいな事、フツーしないって!」
「英二、そんなに笑っちゃ失礼だって……英二の言う通りだけど」
 遠慮を知らない菊丸は大石の真横で腹を抱えて笑いだし、菊丸につられるように桃城が、不二が、声をもらして笑う。河村や乾は三人に比べてやや控えめに。越前は顔を背けているが、やはり静かに笑っているようだ。海堂は大石を取り囲む輪から背を背けている。笑いをこらえているのかもしれない。
「……いや、まあ、そうだよな、うん。普通しないよな」
 もう好きなだけ笑えよ、と大石が軽く吐き捨てて肩を落とすと、菊丸がそれを間に受けて笑い声を強くした。
 大石を哀れむつもりはまったくないのだが、今何らかの処罰を大石に下すには少々気が引ける。俺も責任の一端を荷っているからなのだろうが。
 俺はどうしたものかとその場に居るひとりひとりに視線を巡らせ、不二が視界に入ると、静かに深く息を吸い込んだ。
「不二、お前は放課後グラウンド二十周だ」
 不二は笑うのを止めて、目を見開いた。
「え、なんで僕なの?」
「お前が妙な事を言い出さなければこのような事にはならなかっただろう」
「まあ、それはそうだけど……この場合連帯責任じゃないのかな? ねえ? 『副部長の安眠を守る会』の皆?」
 海堂が眉間に皺を寄せ、深いため息を吐く。
 乾は薄笑いを浮かべつつも無言で少しずれたメガネを直した。
 なるほど、おそらく不二は初めから、こうなった場合には誰かを巻き込むつもりで謎の会を設立したのだろう。食えない奴だ。
「乾、海堂、それから俺も、同じくグラウンド二十周だ」
「俺も、かな。理由は別かもしれないけど」
 苦笑いを浮かべながらため息を吐く大石の投げかけに、俺は肯いて応えるしかなかった。


テニスの王子様
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