終業式が終わり、いつもより長いHRは成績表が配られたり、冬休みの心得を長々と語られたりする。 それでも三年二組の担任は話が短い事で有名らしく、三年で(あるいは学校で)一番早く冬休みがはじまった。終わりの挨拶をすると、皆騒ぎたくて仕方がないらしいが、隣近所のクラスに迷惑だからこっそり帰れと注意され、相殺されてごく普通に教室を出ていく。 皆は帰るために階段を下るか、他のクラスの友人を待つために散らばっていったが、俺はもちろん違う。目指す先は竜崎さんとの約束の図書室。 「あの、もしかしたら私、遅くなってしまうかもしれません、すみませんっ!」 と、竜崎さんは先週の別れ際、まだ起こってもいない事に謝っていた。どうも彼女の担任は、うちの担任と正反対で話の長い先生らしい。 三十分くらいは待つ事を覚悟し、何か読む本は無いかと、俺は本棚を渡り歩いた。 部活を引退してからとにかく暇なので、最近はよく読書をする。いちいち買っていたら小遣いが持たないので、学校の図書室にある本は借りてすましているのだけれど。 だからだろう。未だに読んだ事のない本の中に、これと言って読みたい本が見つからない。長期休みの時は十冊まで借りていいと言われたので、しっかり家に十冊置いてあるし。 俺は図書室を隅から隅まで見回っているうちに、図鑑のコーナーに辿り着いた。 懐かしいな。図鑑なんて、小学校の時以来見ていない気がする。しかも当時見ていたものは、「山のずかん」とか「海のずかん」とか、題名も中身ももっと子供っぽいやつ。 暇つぶしにはちょうどいいかもしれないと、俺は海洋生物の図鑑を引き抜いて表紙を開いた。 表紙の裏には、生身の人間にはけして辿り着くことのできない、薄暗く透き通った深海の写真。 人の手が加わっていない、自然が作り出した完璧な美に、俺はひどく惹かれる。手の届かない、届いたとしてもけして触れてはならない禁断への憧れを抱く。 そうしてページをめくる事もなく、じっとその写真を眺め続け、どれほどの時間が過ぎた頃だっただろう。 「大石先輩?」 「えっ」 弱々しい声で名を呼ばれ、俺は慌てて図鑑を閉じた。見下ろしてみると、本棚の影からそっと顔を覗かせる竜崎さんがそこに居る。 「あ、ごめん。ぼーっとしてた」 「びっくりしました。荷物はあるのに、名前を呼んでも返事がなかったので。お待たせしちゃってすみません」 「いや、ぜんぜん待った気になってないから、大丈夫」 本当に、時間を飛び越えたんじゃないかと思うくらい、あっと言う間に竜崎さんは現れた。 ……俺はいったいどのくらい写真眺め続けてたんだろう。時計を確認するのも怖いから、やめておこう。 「大石先輩は、魚、好きなんですか?」 竜崎さんの視線は、俺が本棚に戻した海洋生物図鑑に注がれていた。 「うん、アクアリウムが趣味でね、部屋にけっこう大きい水槽置いているんだ。でも、魚はもちろんだけどそれ以上に……水が、海が好きなんだと思う」 「水……ですか?」 変な事言う奴だとか思ったかな。竜崎さんは小首を傾げて俺を見上げてくる。 「そう。水は俺たちが生きていく上でなくてはならないもので、圧倒的な力強さと、包み込むような温かさがあるだろう? その中で自由に動き回れる魚たちは、とても綺麗で――羨ましいと思うんだ」 どれほど水と戯れても、泳ぎが上手くなっても、俺たち人間は水上の空気に触れなければ生きていけない。まあ酸素ボンベかついで泳ぐと言う方法もあるのだけど、なんにせよ、人間は水中ではけして自由になれないのだ。魚たちのように。 だから、憧れる。 常に水に触れながら生きているものに。 「おっと。余計な話しちゃったね。せっかく集まったんだから勉強しようか。テーブルに戻ろう」 「あ、で、でも、大石先輩。時間が……」 竜崎さんに促されて時計に目を運ぶと、針は十一時四十分を示していた。 俺、本当にどのくらい写真眺め続けていたんだろう……図書室に来たのは十一時くらいだった気がするけど。 いや、それはいいとして。今日は終業式だから、図書室が閉まるのは正午だ。今からここで勉強会はじめてもしょうがないよな。 「ちょっと早いけどお昼食べに行こうか? 何食べたい?」 竜崎さんは少しだけ口篭もった。 「あのっ、大石先輩!」 かと思ったら、結構な剣幕で俺の名前を呼ぶ。 心なしか頬が紅潮しているようにも見えるけど、それは図書室の暖房が廊下よりずっと温かいからかもしれない。急な温度差を感じると、どうしてもそうなるからね。 「あのっ、私、気分だけでもと思って、その、簡単なものなんですけど、ケーキ焼いてきたんですっ。それでっ……」 ケーキを、気分だけでもって事は……。 「クリスマスのお祝いに?」 「は、はいっ」 やっぱり昨日、一生懸命焼いたんだろうなあ。そう言えば竜崎先生はケーキ作りが好きだって言って一回差し入れてくれた事もあったから、教わりながら作ったのかもしれない。 「いえっ、その、せ、せっかくのクリスマスに、つき合わせてしまったので、お礼と言いますかっ、クリスマスプレゼントに、なるか判らないんですけどっ」 「……」 それは、つまり。 俺のために焼いてくれたんだって、自惚れてもいいのかな? 「それは……楽しみだね。あ、りが、とう……」 嬉しさのあまり動揺し、それを隠しきるために精一杯で、気の聞いたお礼のひとつも言えない自分が情けない。 「図書室は飲食厳禁だから、場所移そう。食堂も閉まってるから、自販機コーナーしかないかな?」 「はいっ」 竜崎さんは、笑う。満面の笑顔で。 そう言えば、いつからだったかな。こんなにも明るく、こんなにも元気に、彼女が笑ってくれるようになったのは。 よく考えたらものすごい進歩なのに、あたりまえのように受けとめていた。もったいない事だ。 「あ、そうだ。せっかくなのに、言い忘れてた」 「何をですか?」 「メリークリスマス、竜崎さん」 俺がそう言うと、竜崎さんはちょっと照れくさそうに返してくれた。 「メリークリスマス、です、大石先輩」 |