クリスマス・イブ

 昨日何度も何度も味見をして舌が麻痺しちゃったのか、それとも先輩の前で緊張しちゃっているのか、持ってきたチーズのタルトの味が自分ではよく判らなかったんだけど、大石先輩はちょっとビックリした顔で「おいしい」って言ってくれたから、ほんとにおいしく焼けたんだと思う。
 先輩の、嘘のつけない笑顔が、すごく好きで。
 見つめる事しかできないけど、優しくて大きい手も、好き。
 食べるのは早いんだけど丁寧で綺麗で、やっぱり好き。
 ドキドキして、すごくドキドキするから。
 先輩が色々な事を話してくれるのに、聞き逃さないようにするのが精一杯で、相槌を打つ事しかできてない。
「そろそろ行こうか」
 クリスマスだからレストランとかよりファーストフードの方が人が少なそうだから、長居して勉強してても怒られないかな? なんて先輩は呟きながら考え込んでる。
 そう。今日はクリスマスだけど、勉強会。それほど特別な意味があるわけじゃない。
 だけど、それでも私にとっては、特別なクリスマス。だってほんの数時間だけと言っても、大石先輩と一緒に過ごせるんだから。
 私は先輩の隣を歩きながら、冬だけどそれなりに温かい陽射しを受ける先輩の綺麗な横顔を見上げる。
 先輩はさっき、水が好きって言った。
 圧倒的な力強さと、包む込むような温かさがある水が好きだって。そして、その中で自由に動き回れる魚が羨ましいって。
 先輩の話を聞いた時、先輩は水みたいな人だなって、思った。
 じゃあ、私は、魚になりたいのかもしれない。
「竜崎さん」
「はいっ」
 とんでもなく恥ずかしい事を考えている最中に名前を呼ばれて、私は必要以上に大きな声で返事をしてしまった。普通の生徒はとっくに下校しちゃっているから、周りには誰も居ないんだけど、一応きょろきょろと見回してみる。うん、先輩以外には聞かれてない。大丈夫。
 私が挙動不審な事している間に、先輩は立ち止まって、振り返って。
「こんな事するのはどうかなあと、一応考えはしたんだけど」
「こんな事?」
「竜崎さん風に言えば『気分だけでも』って事で、よければ」
 バッグからクリスマスっぽい包装紙に、赤と緑のリボンでラッピングされたものを取り出した。
 え……これって……もしかして。
「つまらないものだけど、俺からのクリスマスプレゼント。あとで渡そうと思ったんだけど、今日はどうもいつもより寒いみたいだから、やっぱり今渡しておこうかと思って」
「あ、ええっと、あの……ありがとう……ございます」
「あけてみて」
 指が震えるのは、寒さのせいだけじゃない。
 もう私この時、こんなに緊張した事ないってくらい、極限まで緊張してた。油断すると涙がこぼれてしまいそうなくらい。
 言う事を聞いてくれない手を頑張って動かして、そっとリボンをはずして中を覗いてみると、淡いピンク色のマフラーが姿を現した。
「竜崎さんにも、竜崎さんがいつも着てる白いコートにも、似合うかなと思ったんだけど……もしかして首に何か巻くの、嫌いなのかな?」
「そ、そんな事ないです!」
 私はぶんぶんと首をふる。
 確かにこの冬、私はマフラーをしてなかったけど、それはただ、なんとなく気に入るマフラーが見つからなくて、見つかるまで寒いのを我慢しようって思っていただけ。でもすごく寒いから、この冬休みには妥協してでも絶対買おうって決めてたの。
 まさか、先輩がプレゼントしてくれるなんて。
 先輩が私のために選んでくれた色は、すごく可愛いピンク。私の好きな色。
「嬉しいです、すごく。ほんとに、ほんとに、ありがとう……ございます」
「喜んでもらえてよかった」
 先輩は小さく微笑んで、私にあわせて屈み込むと、長い指でマフラーを手に取り、私の首に巻いてくれた。
 先輩の吐く息が白く空気に溶けて、視界を眩ませる。
 胸が苦しいくらいあったかい。マフラーもだけど、先輩の気持ちも、かすかに触れる先輩の手も。
 すごく、胸が痛いです、大石先輩。
 あんまり優しくて、居心地が良すぎて、ずっとこの位置に居たいのに。
 ここに居られるのかなあ、ここに居てもいいのかなあって不安が、胸を締めつけて。来年には先輩、中等部から居なくなっちゃうし。
 だから、こみ上げてくる熱いものが止められなかった。
 優しい大石先輩が困る事、判っていたのに。
「竜崎さん!?」
 先輩はやっぱり慌てて、それでもすぐにポケットからハンカチを取り出して、私の頬を拭ってくれる。だけどその行為は、余計に私の涙を溢れさせるだけだった。
「大丈夫? どこか具合が悪いとか?」
「ちがっ、違います。そうじゃなくて私っ、ただ……」
 言葉が上手く喉から出てこなくて、私は、ほとんど同じ高さにある大石先輩の目を見つめるだけしかできなくて。
 先輩の眼差しは、すごく真剣で、優しかった。温かい視線に吸い込まれていくような錯覚。
 でも、違う。
 吸い込まれていたわけじゃなくて、近付いていただけ。
 透明感のある澄んだ先輩の瞳は瞼と長い睫に覆い隠されて。
 そっと。本当に、軽く触れるだけの。
 かすかな温もりが、私の唇にいつまでも残るかのよう。
 ――何が起こったのか、しばらく判らなかった。
 はっきり理解できたのは、再び先輩の目が開かれて、目が合った時。
 それまで子供をあやす大人みたいに落ち付いていた大石先輩が急に慌てて、真っ赤になって、私から離れた瞬間に。
「ごっ……ごめん、竜崎さん!」
 私は指で軽く唇を抑えながら、言いたい事は沢山あるのに何も言葉にならなくて、大石先輩を見上げていた。
 大石先輩が、私に――?
「言い訳はしない。本当にごめん。竜崎さん。謝ってすむ事じゃないって判っているけど」
「あ……の、大石、先輩」
「気がすむまで罵ってくれても、殴ってくれて構わない。本当に最低だよな、俺」
「あやまらないで、ください」
 悔やんだ顔をした先輩を見るのが辛くて、私は俯いて目を反らし、だけど先輩を拒絶したとは思われたくなくて、そっと先輩の袖に手をかける。
「竜崎さん……?」
 先輩が酷い人じゃないって、私は知ってる。
 だから、そんな先輩だから――これは悲しい事なんかじゃなくて、嬉しい事なんだって。
 だって今ならきっと、勇気を出して言えるから。
「私、大石先輩の事、好きですからっ」
 言った。
 言ってしまった、とうとう。
 今の関係を崩してしまいそうで、怖くて、言えずにいた言葉。
 先輩の返事はけして私を傷付けないだろうと、判っていても怖くて……ほんの数秒の事だったはずなのに、ものすごく長い時間に感じられた。
 大石先輩は、その場に膝をついて、うつむいた私の顔を覗き込んでくる。いつも以上に柔らかい笑顔で。
「俺もだよ」
「……!」
 先輩は頭をかきながら、笑う。
「どうやら俺は動揺のあまり、順番を間違えてしまったみたいだ。竜崎さんが好きだって、そう言ってから行動に出るべきだったのに。その点はやっぱり謝らなければならないと思う。ごめん」
「そんなの……どうでも、いい、です」
 謝罪の言葉なんか耳に入ってない。
 その前の、一番欲しかった言葉までで、私の思考はパンクしてしまった。
 嬉しすぎて、頭の中は真っ白。先輩が困る事判っているのに、また泣き出してしまいそう。
 ほんとに?
 嘘じゃないですよね、大石先輩。
 私の耳がおかしいわけでも、夢でも、ないよね?
「竜崎、さん?」
 先輩の呼びかけは、私の頭を撫でる優しい手は、無言の問いかけに答えてくれているようで。
「あのさ、竜崎さんは……冬休み中に予定が開いている日はある?」
「え? は、はい。明日はおとまり会の続きで、明後日から三日間は部活で、それ以外はまだはっきり予定、入ってないです」
「俺も二十八日以外はまだはっきりと予定立ってないんだ。だから、冬休みの宿題は、冬休みのいつかにしよう」
「え……?」
 先輩は立ち上がって膝についた埃を払う。ハンカチで手を拭いて、それから左手を私に向けて差し出した。
「せっかくだから時間まで、どこかに遊びに行こう」
 その「せっかくだから」は、クリスマス、にかかってるのかな? それとも……。
 ううん、どっちでもいい事だけど。
 だってこれって、クリスマスに関係ない勉強会から、クリスマスの、デート、に、昇格したって事だよね?
 私は戸惑いながら、そっと大石先輩の手に自分の手を重ねた。
「私、水族館に行きたいです」
「水族館? もしかして俺に気、使ってる?」
「違いますっ。本当に、私が見たいだけです」
 私は力いっぱい、否定した。
 すると大石先輩は申し訳なさそうな顔から、ちょっと子供っぽい笑顔になって。
「それなら、近くにオススメのところがあるから、行こうか」
「はいっ!」
 先輩の大きな手に引かれながら、歩き出す。
 正直言って、図書館では先輩の言っていた事があいまいすぎて全部は判らなかったから――判るようになりたいと、思ったから。
 見てみたい。先輩の隣で、先輩の好きなものを。先輩の目に映るものを、私も。
 今日と言う思い出の日に。

 多分今年は、今までで一番ステキなクリスマス・イブ。


テニスの王子様
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